肯定思考

思考を使う自分の責任



思考は言葉による脳の行為ですが、脳、言葉、思考、いずれも自分に与えられている道具だということを認識しなければなりません。

もしそれを誤解して「思考も脳も自分そのもの」という認識でいると、本当の自分にひずみが出てきて健全な精神を保つことが難しくなってしまいます。

健全に生きるための第一歩、それが【思考も脳も言葉も自分の道具にすぎない】という認識をもつことなんですね。

たとえば刃物を見ればわかるように、道具には正しい使い方と間違った使い方があります。危険なものともなりうる刃物を持つことに使う人の責任が生じるのと同じように、思考は【自分だけにしか使えない特殊な道具】ですから、これを正しく使うということは使用者としての責任です。

この責任を怠って間違った使い方をしたり、思考に逆に縛られたりするようなことがあれば、自分は道具以下の存在(ゆがんだ思考の奴隷)に堕ちてしまうことにもなってきます。もし刃物に人を狂わせる魔力があるなら、思考にも同じように危険な魔力があるということになります。

そうなると自分自身を傷つけたり他者を傷つけたりすることにもなるので、【思考の使用者としての責任】は非常に重大なものだといえます。


肯定思考について

「プラス思考」とか「ポジティブ」というだけでは不十分。より高く、より強く、より美しくシンプルな思考法、それが【肯定思考】です。

そもそも【肯定思考】は、考えすぎることをあまり良いこととはしません。人は自分の脳を使って思考する動物なのですが、だからといって思考に頼りすぎたり思考本位で思考に振り回されたりすると、健全な方向に進むことができなくなってしまうことが多いからです。

例えば「鬱」。人が鬱になるのは、その人自身の思考が悪い方向で際限なく展開していってしまうことに起因します。

「誰かにいやなことを言われた」という時、そのいやな感情を解決するために、私たちは思考の泥沼に陥ってしまうことがあります。

例えば相手の人から、「お前って最低だな。」と言われた時に、「自分は最低ではない」ということを思考によって「証明してやろう」と考えます。そしてそんな嫌なことを言った相手の方こそが最低なのではないか? きっとそうだ。あの人こそが最低なのだ。なぜなら・・・と、相手の言ったことを完全に否定するための思考が際限なく続くのです。

そして自分の思考がたどり着いた「結論」を、自分の意見として相手にぶつけます。これがつまり「喧嘩」です。

喧嘩となれば、相手も応じてくるかもしれません。もし応じてくればどっちが勝つかという勝負になります。そこで勝負に勝たなければ、「お前って最低だな。」と言った相手の言葉が「正しい」ということになってしまうから大変です。

でも相手は決して簡単には勝たせてくれないでしょう。精神的にはお互いに死ぬか生きるかの勝負になってしまいますから、どちらか一方が打ちのめされて敗北し、敗北した人は自分で自分の思考を頼りにすることができなくなってしまうわけです。「自分はいくら考えても勝てないんだ。自分はだめな人間なんだ」という「思考=自分」という誤解をもとにした絶望感ですね。

どこで間違っていたんだろうか? 敗北してからそんな反省ができればまだいいですが、実際には自分への信頼を失い、自分を肯定できなくなることで鬱になってしまい、健康を害して寝込んでしまったり、最悪の場合にはもっと悲惨な結末が待っているかもしれません。

ここで本当に間違っていたのは、決して陥ってはいけない「否定思考」の泥沼に嵌ってしまったことです。

まず相手の嫌な言葉を「完全に否定してやろう」ということで思考がフル回転しました。回りすぎてオーバーヒートするぐらいに、考えに考えて、自分のそうした果てのない思考によって、自分がただひたすら苦しめられていったのです。

そのような重大な失敗をしないようになれば、誰でも人生を生きることが充実して、仕事でもプライベートでも成功者になることができます。

そのための思考法、それが【肯定思考】です。

【肯定思考】とは、自分にしか使えない自分自身の思考という道具を、自分自身や親しい人々の存在を肯定するために正しく使うことです。

(また、親しいとはいえない人々に対しては「機会があれば親しくなろう」という意識をもつことも肯定思考の一環です。)

まず何よりも、思考が自分の道具であることを自覚すること。思考=自分ではないことを自覚するところから始まります。

この自覚には多少の努力が必要となりますが、何事も努力を成功させるためには意志をはっきりと持つことが必要になるでしょう。誰でも「努力は苦手」だったりするものですが、まったく努力しないことによって自分という尊い存在が道具にすぎない思考の奴隷になってしまってその先には鬱病が待っているということになれば、ここはやはり意志をもって努力するしかありません。

自分も、自分の親しい人たちも、みんなが尊い存在です。親しい人から嫌なことを言われたからといって即座に反応し「いなくなれ!」と「否定思考」をすれば、相手だけでなく、自分という存在自体も否定することにつながってきます。

嫌なのは言葉であったり行為であったりするにすぎません。その人の存在自体が最初から嫌だったわけではないんです。

それでもその人がいつも嫌なことを言ったり嫌な態度を見せたりするということに苦しみを感じるかもしれませんが、もしそうなら、親しい人の「嫌な言葉、嫌な態度」をなくすために、私たちはどんな方法が使えるでしょうか?

その方法だと勘違いしがちなのが、反撃です。

相手の嫌な言葉や態度を「自分への攻撃」だと受け取って、自分の方からも攻撃的に反応すること、それが反撃ですが、反撃をすることによって相手の言葉や態度を変えることができるでしょうか? 誰でもこのように冷静になって想像してみると、どうやら反撃は有効な方法ではないことがわかります。

「北風と太陽」の北風の話がありますが、反撃をすれば相手はますます態度を硬化して、自分に対して嫌な人であり続けるでしょう。
つまり有効な方法は、相手を生かす(肯定する)ための意志をもつこと。相手と対立する「北風」ではなく、相手を肯定する「太陽」になることです。相手が寒がっているなら、ほんの少しでも暖かく接する努力をすること。相手がいらいらしていたり、自分に不満をもっていたりしても、それに反撃することなく、相手が陥っている思考や感情の状態を理解するように努めて、相手の存在それ自体が悪いものだとは見なさないことです。そうすることで、自分に対する相手の態度が良い方に変わってきます。

これが問題解決に最も有効な方法【肯定思考】です。

【肯定思考】は【人と対立しない姿勢】と言い換えることもできます。

ただここでひとつ注意したいことがあります。それは、【存在を肯定する】ということは「自分を正当化する」ということとは根本的に異なるということです。

「自分の正当化」は、「自分が正しい」ことの理由や材料を「思考」によって集める作業です。その作業=思考は、自分や親しい人の存在を肯定するという姿勢がなくてもできてしまいます。

例えば、ある宗教家に「私の宗教を信じれば日ごろの苦しみから救われるだろう」と教えられ、その宗教に入信したとします。入信の動機は「日ごろの苦しみから救われたい」という考えですが、もし「その宗教に入信すること」と【親しい人たちの存在を肯定する】こととが両立しないようなら、それは単に自分を正当化するためだけだということになります。

入信した自分は正しく、入信した自分を批判する人は間違っていて、親しい人たちにも入信するようにすすめて断られたりして、断った人たちを「正しくない」などと考えるようなことがあれば、それは「自分の正当化」にはなっても、【肯定思考】にはなりません。

それは入信しない人を否定するという、明らかな「否定思考」になっているからです。

宗教も、本当に深く理解することができれば、そのような「否定思考」は教えないはずなのですが、生半可に理解したつもりになって、「対立」を増やしてしまうことが往々にしてあります。また、その宗教が良い宗教か悪い宗教かを見分ける最も簡単な方法も、この【対立があるかどうかというポイント】を見極めることです。

オウム真理教などの怪しいカルト宗教がだめなのも、入信することで対立を増やすという明らかに人の道に反することを「間違っていない」と強弁し、無知な信者を騙しているからです。「信じる人と信じない人との間に対立が生じるならそれは間違った宗教」だと知っておく必要があります。

同じように、「スピリチュアル」と呼ばれている最近流行の「精神世界」についても同じことがいえます。信じる人にしかわからないような世界に入ることを良しとして、身近な親しい人たちとの対立については放置したままになるようなら、その「スピリチュアル」も悪いものだと言わなければなりません。

【肯定思考】に対立はありません。対立のないことが【肯定思考】です。

もし誰かと対立してしまったら、対立のなかった状態に戻ってその人の存在を肯定するよう努力します。人の存在を肯定することは即ち、自分の存在を肯定することにもなります。

【存在を積極的に肯定すること】。それは「愛」と言い換えることもできます。だた、愛というと何だか宗教っぽくなってしまう上に意味の取り方が人それぞれになってしまいがちなので、なるべく使いません。

もし「愛」といって【存在を積極的に肯定すること】という意味であるとはっきり理解することができるのであれば、「愛」という言葉を使っても良いかもしれませんが、私たちは「愛」という言葉が引き起こす様々な誤解に囲まれて暮らしてもいます。誤解はトラブルの原因でもあります。

つまり【愛という言葉には弊害がある】ということです。「愛」と言えば「正当化」できるとばかりに、言葉の真意には無頓着なままでこの言葉を使うべきではないのです。

また「愛」に限らず、「真意に無頓着な良い言葉」が横行しています。「癒し」もそうでしょうし、「健康」もそうです。そしてもちろん「幸福」とか「幸せ」もそうです。

もし私たちの一人一人が「幸せ」という言葉を各自好き勝手に理解しているのだとしたら、それこそが災いの原因にもなりかねません。
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このように、アンガーマネジメント静岡教室の『ステップアップ講座』では、【肯定思考】についてもっとくわしく、わかりやすく学ぶことができます。