2014年10月15日水曜日

二元思考をしない人になる

在特会というヘイトスピーチを行なう団体があって、韓国や在日韓国人がこれまでやりたい放題、言いたい放題に日本を誹謗中傷してきた非道の数々に対して怒りを表し、日本全国にその怒りへの賛同者を募ろうとしています。これはまずいことだなと気づいている人もいますが、それに賛同する人たちがどうやら増えているようでもあります。

ヘイトスピーチの賛同者は「これはヘイトスピーチではない。事実を指摘しているだけのことだ」と認識していたりしますが、それというのはつまり、「ヘイトスピーチ」の意味がよくわかっていないとしか言いようがありません。

ヘイトスピーチとは、憎悪を主張したり、相手の憎悪を煽ったりすることです。だからいくらそれが事実だからといって、憎悪の感情にまかせて集団で怒りをぶつけたり、相手に憎悪されることを厭わず相手の憎悪を煽ったりすれば、それはどこまで行ってもヘイトスピーチなのです。

「反原発運動」などの政治運動にも、これと同じような傾向が見られます。東京電力福島第一原子力発電所の事故以降は、それまで原発などには無関心だった人たちまで、にわかに問題意識を持つようになり、「原発=悪」「経済界=悪」「原発容認派=悪」という扇動を歓迎し、「原発は悪いものだから、それに反対しない人も敵だ!」というように叫ぶようになりました。そう叫ぶことが「正しいこと」と信じて疑わないのです。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに、憎悪する対象が直接の対象にとどまらず、その周辺や関連する人や物事にまで拡大していきます。憎悪とは、そういうものなんですね。

そうした状況に違和感をおぼえて、そこに不穏な憎悪が渦巻いていると察知した人たちは、そうした運動から徐々に遠ざかって行きますから、当初は何百人という大きな規模だったデモも次第に小さくなっていって、「プロ市民」のような人たちばかりになるという傾向もあるようです。憎悪が悪いものだということを直感的にわかっている人も多いということです。

私たちも自分のことを振り返ってみますと、誰でも誰かを憎んだことがあるのではないでしょうか? (そんなことは一度もないという人がいたら羨ましい限りですが) 私も人生五十年以上、いろんな人を憎んだり、恨んだりしてきたと思いますが、幸い、憎悪を続けるだけの体力や執着がなかったおかげで、深刻な状態、つまり深刻なB思考に陥ることはさほどなかったように思います。

そこで今回は改めて、「憎悪のどこが自分にとってマイナスか?」ということを、客観的に考え、ちゃんと知っておくことにしましょうか。

まず、憎悪という感情の一番悪い点は、「自分が正しくて相手が間違っている」という、「自分=善 vs 相手=悪」の二元思考になってしまうことです。
二元思考になって、どちらか一方を正しく、他方を間違いと認識してしまうと、第三者から「君が気づいていない別の考え方もあるよ」と、親切心から指摘された場合でも、「君は正しくない」とケンカを売られたように感じてしまって、指摘してくれた親切な人を憎悪するということも起こるのです。

二元思考の頭の中には「善の側=自分の側」と「悪の側=敵」という、2つしかありません。それで、自分を疑う人は敵だという単純な思考になってしまうことになるのです。

自分の言うことを何でも「はい、その通り。あなたはとても正しい」と、肯定してくれるばかりだったら、それはそれで、とても気持ちのいいものなのかもしれませんが、現実は「自分側か敵か」という二元思考では解決できないことばかりです。むしろそうした二元思考では、悪い事態がますます悪くなるばかりです。

たとえば「韓国が悪事の限りを尽くして日本を崩壊させようとしている」ということが仮に事実だったとしても、事実はそれだけではないと考えなければなりません。

「原発は人類を滅亡させる」という話になると、それは未来のことなので事実かどうかわからないのですが、原発反対派にとっては、原発=悪という見方を絶対のものとして疑うことができなくなってしまっているのですから、「原発が悪とは限らないよ」などと指摘しようものなら「そんなことを言う人は悪だ」と激怒されてしまいます。しかも「事実がわかってない!」と攻撃されてしまうでしょう。

その「攻撃」には、原発反対論を正当化できる事実、つまり「原発=悪」の「根拠になる事実」が、これでもかとばかりに繰り出されてきます

もっとも、原発が人類にとって危険なものであり、悪ければ人の命を脅かすものであるということは、もう何十年も昔からわかっていたことでした。しかし実際には、原発事故による犠牲者数というのは、「圧倒的な便利さ」とその「使用される規模」から見ると、「大したことはない」という見方もできるのです。

これは、「飛行機は他の交通手段に比べて事故に遭う確率が低い」という論理と同じものです。飛行機はひとたび墜落すれば乗客乗員全員が死んでしまいますから、その意味でとても危険な乗り物だと感じられるのですが、自動車や鉄道、船舶などによる事故の確率と比べると、飛行機のほうがずっと低くて安全だというわけです。

原発も、ひとたびメルトダウンなどの事故になれば、人を殺しかねない放射能があたりを汚染してしまうという「危険な道具」ですから、行政が「原発は使用させない」という決定を下すことで原発の使用はひとまず停止させることができます。

実は同じように「危険だから使用させない」とするべき便利な道具があります。それは自動車です。誰でも自動車を所有したりそれを運転したりできる世の中になってはいますが、自動車が自由に乗れることによって、日本だけでも毎年数千人規模の犠牲者が出ています。世界規模では想像もつかないくらい大勢の人たちが、自由に走る自動車によって殺され続けているわけです。

「犠牲者を減らす」という目標を立てて、それを実現させる方法として、最も確実なのは、自動車の販売や運転免許の交付のルールを限りなく厳しくすることでしょう。たとえば、公共交通であるバスの運転手として正式に認められた人だけが、バスを運転するという制度を作るのです。そして一般の人たちが自動車を所有したり運転したりすることを全面的に禁止するのです。

「犠牲者を減らす」という目的を達成させるためなら、以上のような方法が最も確実ですし、行政としては、なんとしても実行すべき対策になるはずです。

この対策に、何か問題があるとすれば、その最大の問題は、自動車産業が壊滅的な打撃を受けることでしょうか。でも考えてみたら、ここまで自動車産業に経済を依存するようになってしまった最初の段階、つまりモータリゼーションを始めた時点こそが間違っていたと考えることもできます。

アメリカでいえば、1920年代、日本なら、1945年の敗戦直後ならまだ自家用車はほとんど走っていませんでしたから、その時点で自動車の個人所有を禁止し、戦前から走っていたバスを増やすだけにしておけば良かったのです。そうすれば、毎年数千人の人が殺されるという、今のような最悪の状況にはならなかったはずです。

とはいっても、自家用車がここまで便利なもので、経済を支え、交通を担っているというのが今の現実で、その「メリット」というものも大きなものがあります。年間数千人が殺され続けるという「デメリット」は変わらないでしょうけれども、個人で自由に自動車を所有することがここまで当たり前になってしまってから、そのメリットを全て捨ててしまおうという「運動」は、なかなか起きないのです。

そして、社会の結論は「安全を心がけて使え」というところに落ち着きます。

さて原発ですが、犠牲者はほぼゼロといっていいくらい、ほとんど出ていません。それでも危険な道具であることには何ら変わりはありませんから、できることなら全部停止させて、二度と使わないようにした方がいいでしょう。それは、原発は危険だという無視できない「デメリット」があるからです。

一方で、「メリット」もあります。発電コストを下げることで、経済に貢献します。自動車と比べてどうかということまではわかりませんが、事故なしで使うことさえできれば、環境問題にも貢献しますから、そのメリットは大きなものです。

そして、これまでの社会の結論は「安全を心がけて使え」というところに落ち着いてきたわけです。この点も、自動車と同じです。

原発を使い続けるべきか否か、その結論をここで出すつもりはありませんが、「原発は危険だから絶対に悪である」という、「善悪二元思考」で考えるようなことをしてしまえば、それに同意しない人全員を敵視するという愚かな事態に陥ります。

私たちが陥ってはいけないのは、「人類は我々か敵かの二種類だけだ!」という、善悪二元思考に陥ることです。善悪二元思考こそが「憎悪」の原因であり、「ヘイトスピーチ」を生み出すわけです。

もし人類を二分するとすれば、それは「敵 vs 味方」ではなく、「二元思考で見ている人 vs 多面的に見ている人」の二種類なのかもしれません。

作文する時間の制約もあって、今ひとつまとまっていないかもしれませんが、どう考えどう行動するかを考えてみるきっかけになれば幸いです。