2014年9月14日日曜日

悟りの科学


アマゾンなんかでいろいろ立ち読みしてますと‥‥(立ち読みっていうより閲覧ですね)‥‥ 「悟り」の本があります。


書いた著者が、本当に悟ったと言ってるものがあるんですが、どうも胡散臭い。

かつてオウム真理教の凶悪犯、アサハラショーコーが、自分は「最終解脱した」とかのたまわってましたね。

きっと本人は “いたってその気” なんでしょう。でもね、説明してほしいですね。

そういうことを言ってる人のほとんど、というか全部、要するに「悟りの境地を開いた」と言ってる。じゃあその「境地」って何でしょうか? とツッコミを入れれば、というかしつこく問い詰めれば、「そういう気分」なんだろうと思うわけです。つまり「その気になってる」ということです。

まあ、笑ってはいけないとは思います。誰がどんな気分になろうと、その人の勝手ですから。そしてその人は本を書いて、「あなたもこんな気分になってみたいでしょ? なれますよ。難しいことですけどね」と言ってるわけです。

でもそれを「悟り」とか言うのはどうなんだろうと思います。

思考革命を提唱している私(筆者:興津諦)としましては、皆さんにはっきり伝えたいのは、「悟りとは、気分ではない」ということです。

じゃあ何かということになりますが、このサイトをいつも読んでくださっている皆さんならおわかりかと思いますが、 “自分の思考に縛られない” ということですね。

普通は、こんな順序です。

帰ってきて部屋に入ろうとする

置いてあった掃除機にけつまづく

スネを打ってすごく痛い

「いたた〜!」と声が出る

気持ち的にもすごく不愉快になる

(ここから思考が始まる)

ここで思考が始まって、「いったい誰がこんなところに掃除機を置きっぱなしにしたんだ? 危ないじゃないか! 許せない! 犯人を見つけて説教してやろう。どんなに痛かったか、教えてやらなければならない。そうだ、きっと息子だ。息子の教育は完全に間違っていた」‥‥なんてことになってくると、息子の存在そのものよりも、自分の考えの方が大事になっています。

そんな思考をしない。そんな思考に縛られない。ということが、ひとつの「悟り」です。思考よりも、息子の存在を大事にするということです。

悟ってみたい♪ と思う方。あなたのための準備できてます。