2014年9月29日月曜日

スーパーマンと善



「善とは何か?」について、これを小難しい哲学やらなんやらを持ちだして学者先生方が議論を始めると、実にやっかいで始末に負えない騒ぎになってしまいます。

『パーミストリー 〜人を生かす意志の話〜』にも書いたことですが、それはつまり「思考」を優先して議論するせいで、難しい思考をすればするほどわからなくなってくることなんですね。

絶対的な善のことを「人を生かす意志」であるとするのが『パーミストリー』の論旨であり、コスモパームの基本概念ですが、これは決して、本を書いた私の創作でもなんでもなく、人類が無意識に共有している絶対的な価値を言葉に表したまでのことです。

例えば、誰でも知っている『スーパーマン』を見ると実にわかりやすいです。

2006年のアメリカ映画『スーパーマン・リターンズ』には、スーパーマンの実の父によるものとしてこんな言葉が出てきます。
人間にはよき資質がある
だがそれを導く光がない
彼らの善の能力を照らし導くため
ひとり息子のお前を地球へ送った
(スーパーマン・リターンズ 2006年)

但し、これをそのまま読むのではなく、「どうしてこのような創作上の設定がされたのか?」という視点で考える必要があります。

スーパーマンは、アメリカ社会とアメリカ人が求め、世界が共感してきた「ヒーロー」ですが、言い換えればそれが「絶対的な善」だということ。世界が希求してきたのは「絶対的な善」なのです。

一番わかりやすい点ですが、スーパーマンとクラーク・ケントを描くのに細かな人物設定が必要ないということがあります。つまり、ただ「究極の善人」を描けば良いということです。

そしてその「究極の善人」についての小難しい定義は必要ないのです。「善」は世界共通のもので、人類が生まれながらにして持っているものだということの証明になります。

だからもし映画を見た観客から「究極の善人が描けていない」という感想が出るようだったら、それは「善の概念」が誤解されていることになり、もし観客が満足すれば、「善の概念」を正しく伝えていることになります。

映画の製作者は、この点をしっかり心得ています。でも細かな定義はしていないのです。それが、「善は世界共通で共有されている」という事実の証明になります。

スーパーマンの使命は、地球人の「善の能力を照らし導く」ことであると、映画の中でも語られるわけですが、映画の中に存在するスーパーマンとクラーク・ケントの人物設定を見てのとおり、それは「人を生かす意志」を貫く者、そのものなんですね。