2014年8月14日木曜日

人の存在、人との共存は、どんな思考より尊いということ

頭のいい子供が友だちを殺害したり、頭のいい人が自分を殺害したり(自殺)する事件が相次ぎます。そこには私たちの価値観の根本的な間違いが見えます。

間違った価値観
「頭が良い人」=「優秀な人」
「頭が悪い人」=「劣った人」
「人を殺すこと」=「高い知性による結論のひとつ」
「自殺すること」=「高い知性による結論のひとつ」

以上は、全て間違いです。

哲学者とされている人たちは、どうやらいまだに「人はなぜ人を殺してはいけないか?」とか、「なぜ自殺は悪いか?」などといった議論を繰り返して、明確な答えが出せずにいます。そもそも「哲学者」って、「高い知性の持ち主」なんじゃないかと思いますが、そのくせそんな簡単な問題に答えが出ないんですから、「高い知性」という言葉の意味するところが間違ってるんでしょう。

世の中で間違って考えられている「高い知性」とはつまり、「脳みその力」ということです。「脳みそ」が活発に働いて、その働きぶりが普通の人にはとても真似できないレベルであれば、その人は「頭が良い人」とされ、「優秀な人」とされてしまいます。しかしそんな「頭が良い人」「優秀な人」が、時には人を殺したり、自殺したりもするんです。

本当に優秀な人とは、人を理解する能力、人を尊敬する能力に優れた人のことです。

自分を尊敬したり、ましてや自分の道具にすぎない脳みそを尊敬したりする人は、決して優秀な人ではありません。脳の機能のひとつである自分の思考能力にみずから惚れ込んで、それをもって「自分は優れた人間だ」なんて思っている人というのは、単なる「道具の奴隷」でしかないのです。

そんな間違いは、誰でも子供のころから始まっています。
  • 「良いおもちゃを買ってもらえるかどうかで自分の価値は決まる」と思う
  • 「髪の長い女の子は短い子より美しい」と思う
  • 「勉強のできる頭の良い子は人気があって当たり前」と思う
  • 「太っていて走るのが遅い子は馬鹿にされて当たり前」と思う
  • 「腕力でけんかが強い子より、口が達者で言い負かす子が偉い」と思う
こんな馬鹿なことを大まじめに信じていて、そのために必死になったりして私たちは育ちます。誰もがそんなふうに育ってしまうのは、目に映る様々な道具や持ち物が優劣を競って勝敗を決めやすいものであること、優れた道具はとても魅力的に見えることが原因です。

私たちが本当に競わなければならない “知性” とは、道具や持ち物の優劣ではありません。道具や持ち物は簡単に点数が出て優劣が決まりますから、それだけで優劣を決めようとすることは、人間として怠惰であるというしかないのです。つまりそんな優劣にこだわるのは、人間として劣っていることを自ら認めることになります。

本当に素晴らしい、価値のあることというのは、人を生かす意志にしたがって、人を深く深く理解しようと努力すること。それによって人を深く尊敬することです。私たちの人格というのは、それで決まるといって良いのです。

脳みそとか、思考能力とか、記憶力といった道具の優劣にばかり目を向けていると、人格のレベルはちっとも高くなりません。むしろ低くさえなってしまいますから、それによって、自殺したり、人を殺害したりするという、人間として最も忌み、憐れむべき結末に向かってしまうことさえあるのです。