2014年2月2日日曜日

祈ること、祈るしかないこと。

幸せになる方法でノーベル平和賞を目指すコスモロジカル・パーミストリーです。

自分という存在や、自分たちというグループがあまりに無力で、どうにも助けようがないというときがあります。

たとえば1945年8月、アメリカ合衆国は日本の広島と長崎の無辜の市民に対し、人類史上最も残虐な核兵器を使用して数十万人を虐殺しました。人を人と思わず、神を畏れず、そして “生かす意志” に最も反した形の愚かな行為は、当の米国政権にも罪の意識がなかったわけではないでしょう。

しかしながら悲しいことに、私たちの世界はこのように、数値化ができる強大な力を持つ者にこそ「正義」があるとされますから、その「正義」なるものに歯向かう者、「正義」なる者の立場を脅かす者は、「正義の強大な力」によって抹殺されてしまいます。

人の生存ということに関してはこのように、強い者が弱いものの命運を握るという絶対的な構図が世界を支配しています。

多くの国民を虐殺された私たち日本ですが、そんなアメリカをさえ、許しています。

ここに真の意味での寛容があり、平和共存があり、生かす意志があるのです。

一方の強者の側はといえば、完全にB思考の脳、つまり数値化できる価値のみに支配された、存在としては低次元の生き物にすぎないということもいえます。

もちろん強者はそんなことを認めませんから、なんとかして崇高な精神をもつ日本人にも罪を着せようとするわけです。その代表が、「南京大虐殺」という架空の事件です。そんな大規模な虐殺がもし本当にあったのなら、また言われている規模のたとえ十分の一でも、百分の一でも、そんな非人道的な行為が日本軍によって行われたのなら、当時の南京にいくらでもいた報道の人々によって、即座にニュースとなって世界中に知れ渡ったはずなのですが、この事件が “生み出された” のは、日本が敗戦して後のことです。

それでもなお、日本人はそうした冤罪をさえ、受け入れてしまおうとしています。

強者が正しいというのなら否定はしません。どうぞお好きなように罪を着せてください。私たちは受け入れますから。

私たち日本人と日本政府は、このように嘘まで受け入れて、反抗するという姿勢を決して取らないようにしています。

もちろん、時代がさらに進んでアメリカ合衆国が正義だという構図が崩れたときには、遠い過去の歴史を検証して、日本は罪を犯さなかったと認められる日も来るかもしれませんが、まだまだそれは望めそうにありません。私ごときがこの場にこのようなことを書くことさえ、あるいは犯罪行為とされてしまう可能性があるのです。

このように、この世界にはどうにもならないことがあります。いくら事実通りに正しいことを言いたくても、それを言うことが許されないということがあるのです。

そのような時には、潔く口をつぐんで、ただ祈ることにしましょう。

問題は、今、現在において、事実が認められないということなのであって、未来永劫に事実が認められないというわけではないということです。

今のことだけを最優先として、今すぐにこの事実を認めてほしいと、必死に抵抗して叫び続けること、これもまた、B思考です。

B思考は、今だけを見ています。それに対して、A思考は今というこの瞬間に囚われません。A思考は全時間、全空間の大きな意志である “生かす意志” に従います。A思考は、今がたとえだめでも、今がこれから正しい方向へと向かうように考えます。そこで私たちは、少なくとも祈ることができるのです。

祈りは共鳴を生み出すためのものです。共鳴とは、生かす意志との共鳴です。生かす意志と共鳴して生きることができれば、その人はなかなか不幸に見舞われることがありませんし、大きな意志の流れに助けられて幸せになることもできれば、大勢から認められて成功することもできるようになります。

生かす意志に従って考え、行動すること、その中には、祈ることが含まれ、また、祈ることしかできないというときもあるわけです。