2013年11月19日火曜日

年を取っても尊い存在

幸せになる方法、コスモロジカル・パーミストリーです。


今回は、年を取るということについてなど、考えてみたいと思います。

「年配者を敬いなさい」というのはもちろん結構なことなんですが、例えばお隣の韓国など見ますと、初対面でまず年齢を聞き合うんだそうで、自分より年上か年下かを大変に気にするようです。それによって言葉遣いがまったく変わるというんですね。

日本でもそのような風習がないことはありませんが、初対面なのに、自分が年上だからと年下に対してぞんざいな態度を取ったりする人は尊敬されません。尊敬されるかどうかは、年齢によって決まるというようなことは、日本ではもうないといってよいかと思います。ですが韓国では、「自分と相手とどっちが偉いか」というのを常に気にかけて人々が暮らしているということなんですね。それよりも、どうすれば相手から尊敬されるかを気にした方が良いと思うんですが、そうでもない人が少なくないようです。

そのあたりは「プライド」という概念の問題でもあって、偉そうにすることがプライドだと考えるのは大きな間違いで、本来のプライドとは、尊敬される自分であろうとすることです。ですから、偉そうにして尊敬されない人は、プライドがないと言っても良いわけです。

そもそも年齢なんてものは、先に生まれたか後に生まれたかというだけのことです。親子の場合でも、親は子よりも二十から四十年ぐらい先に生まれたということでしかなくて、年齢ではなく、親子であるということが大事になるはずです。

「私は君のお父さんぐらいの年なんだから、尊敬してくれなきゃ困るな」

まさか年齢の差だけでそんなことをいう人もいないでしょうけれども、仮に年齢が四十歳離れていたとしても、長い人類の歴史、地球の歴史(?)からすれば、四十年なんていうのはほんの一瞬の違いでしかありません。年がいくら違っても、今こうして同じ時代、同じ瞬間を生きているんですから、そっちの方がはるかに尊いことです。

長い年月を連れ添って生きる、夫婦という関係で考えてみましょうか。

もちろん見た目によって、まだみずみずしい若い顔と、深いしわが刻まれた年老いた顔とでは様子が違います。それが何を意味するかといえば、それぞれの持ち物であり乗り物である顔や体が、どれぐらいの年月にわたって使用されてきたかという違いです。生きて来た年数、死に近づく年数の違いが、見た目に表れるということです。

それは何のためかといえば、若くみずみずしければ、まだ若者として働けることを表し、まだ子供を増やせることを表します。しわが多く年老いていれば、体力的には若者に劣ることを表し、もう子供を増やせないことを表すでしょう。それはいずれにしても、生物学的な要請に応えるための “目印” でしかありません。

昨今は、「年の差婚」なんていう言葉もあって、たとえば夫が六十代の老人で、妻が二十代なんていう、親子以上に年の離れた夫婦というのもあるようです。それが良いことか悪いことかという以前に、それによってどんな幸福が得られるか、あるいは、どんな苦労を覚悟しなければならないかを予測する必要はあるでしょう。

六十代の夫が二十代の妻に子供を生ませても、子供が成人するまで夫が元気でいられるかどうかといえば、妻と同世代の若い男性に比べたら、元気でいられる確率はかなり低くなります。元気でいられないとなれば、妻に経済力があるかよほどの財産でもない限り、お金のかかる高等教育を子供が受けられる可能性も低くなります。

もしその年齢が逆で、妻が六十代ということになりますと、若い夫が子供をほしいと思っても、それは生物学的にかなわないことになってしまいます。どうしても子供がほしければ妻とは別の女性を探さなければなりませんから、そうなると夫婦がいつまでも円満ではいられません。いずれの場合でも、生物学的な年齢による機能や可能性の点で、夫婦間のバランスが取りにくいということです。

それでも互いにかけがえのない存在で、いつまでも仲良く暮らすということもできるかもしれませんが、それには互いが互いの年齢のことを全く問題にしないという、意志と意識が必要になります。

その “意志” とは、互いを生かし合う意志です。そしてその “意識” とは、相手を年齢で見たり、外見で見たりしない意識です。外見がどうであっても、人は年によって “違う存在” になるということはありませんから、その人の存在そのものが尊いと感じてさえいれば、年齢による外見の変化もまた、愛すべき尊いものに思えてくるはずです。

それは同世代の夫婦であっても同じことです。「外見が老けたから若いのを探したい」なんていうのは、生物学的な要請としてはあるかもしれませんが、人を生かす意志として生きるべき人間にとってはB思考で、とても尊敬される姿勢ではありません。「自分はプライドもないし、尊敬されたいとも思わないからそれでいいよ。若い娘がほしいよ」というようなB思考の人を尊敬してくれる若い娘がいたとしたら、その娘の尊敬は根本的な思い違いということにもなるか、あるいはそんな人を大事にしてくれる若い娘もまたB思考でしか見ていないということになります。

もう言うまでもないことですが、B思考では本当の幸福は決して得られないのです。

【B思考】についてはこちらをご覧ください ▶『A思考とB思考』