2013年10月16日水曜日

思考を手玉に取る

幸せになる方法、コスモロジカル・パーミストリーです。

「手玉に取る」というのは「弄ぶ」「翻弄する」「自分の思うままに扱う」という意味ですが、「思考を手玉に取る」とはどういう意味でしょう。

思考というのはいってみれば “諸刃の剣” です。良い思考をする場合と、悪い思考をしてしまう場合とがあって、良い思考のことを〈A思考〉。悪い思考のことを〈B思考〉と呼んでいますが、そのどちらにもなってしまうのが思考です。

〈A思考〉とは、人を生かす意志に従った思考です。「人を生かす意志」というのは、書籍『パーミストリー 〜人を生かす意志の話〜』に書いた通りの〈肯定思考〉となるものです。「Affirmative (肯定)」や「Ace (楽勝)」といった語の頭文字でもあります。

〈A思考〉をしている限りは、思考の持ち主である自己が人を生かす意志に従っていて、思考をそのための道具として役立てていることになります。

一方の〈B思考〉とは、本来は自己の道具であるべき思考が、逆に自己の主人として叛乱を起こしている状態です。ひとり歩きして暴れる思考によって自分が使われている状態、あるいは自分が思考の奴隷となってしまうような状態です。「B」は「bondage (束縛、奴隷状態)」とか「black out (見えなくなること)」の頭文字でもあります。

〈B思考〉では、思考という道具が、自分の持ち物や自分の道具を守るために、いわゆる利己的な方向性をもって、思考自体が主体的に活動して自己を支配しようとします。

これらの具体例は、パーミストリー講座の中でお話ししていますが、簡単にいえば〈A思考〉は人を生かす意志が主体で、〈B思考〉は思考が主体ということです。このように、日ごろ私たちがどちらも同じ思考であると考えてしまいがちな二つの思考があって、それは方向性において正反対で、主人がまったく異なります。

〈A思考〉の主人は思考を持ち物とする私たち持ち主ですが、〈B思考〉の主人は思考そのものなのです。「思考=自分」と考えて疑わずに暮らしていると、その区別はできません。その区別のできないままに思考を働かせていると、思考が人や自分を傷つけることもあれば、生かすこともあるわけです。そうした意味で、思考は諸刃の剣だということになります。

つい〈B思考〉に陥っているときには、なんとしても〈A思考〉に切り替えたいものですが、実際にはなかなか容易ではありません。『パーミストリー 〜人を生かす意志の話〜』の中では、そんな時には「思考を停止」した方が良いと述べました。

思考を停止するという切り替えが、誰に教わったともなく、最初から自分でできている人もいます。そんな人は思考によって泥沼に落ちていくことが滅多にありませんが、そこで思考が停止できない人は、度々泥沼状態になってしまいます。

実際そのように、この世界には頭が良いか悪いかに関わらず、〈A思考〉が得意な人と、得意でない人とがいて、〈A思考〉が得意な人は、人からも愛され、社会的にも成功しやすい人です。一方の〈A思考〉が苦手な人は、疑念に捕らわれやすく、人を愛することも人から愛されることも比較的少なく、社会的に成功する可能性も比較的低い人です。

もちろん〈A思考〉が得意な人であっても、何らかのトラブルをきっかけに〈B思考〉に陥ってしまうこともありますから、もし〈A思考〉と〈B思考〉とを意識することができるようになれば、悪い方へ向かいはじめのところで早期に修正することができるようになります。

修正にはまず〈B思考〉をびしっと停止することですが、それが〈B思考〉であるといち早く気付くには、「自分には非がなく、相手/他者に非がある」という結論を正当化するための論理的思考をしている状態に気付くことだと思います。

たとえばあなたが相手の人から「お前は最低だ」と言われたとしましょう。あなたは決して最低などではないにも関わらず、相手の人からそんなふうに決めつけられては黙っているわけにはいかないという感情になります。その感情はあなたの〈反応〉です。〈反応〉とは、たとえばすねを椅子にぶつけた時の痛みに対する反応と同じで、急激に襲ったその痛みをとっさに和らげようとする反応です。すねなら、「いたたー!」といって手でそこをさするでしょう。同じように、「お前は最低だ」と言われたことによる感情的な「痛み」に対して「黙ってはいられない」という感情が反応として生じるのです。つまり、「いたたー!」も「黙ってはいられない」も、同じような反応なのです。それは人を生かす意志としてのあなたの本来の存在のためではなく、一個の生物としての反射のためだということです。

私たちはもちろん生物として生き長らえるための本能ももっていますから、そのような反射が起きるのは仕方ないことで、一時的には怒りもしますし痛みも感じます。怒りや痛みという反射を全て否定してしまっては、生物として生存を続けるのが大変なことにもなりそうですから、一時的な怒りはあって当たり前だと考えて良いと思います。

ただそこで気をつけたいのは、怒りや痛みという反射にまかせて、相手の人格や存在を否定するところまで思考を働かせてしまうようなことは決してあってはならないということです。そもそも怒りや痛みの原因は、相手の人格でも存在でもありません。原因はあくまでも相手のとった言動なのです。言動というのは相手の存在ではなく、相手の持ち物であり相手の使用した道具にすぎないのですから。

持ち主と持ち物を区別するということは、手相の基本を勉強する上で欠かすことのできない重要な原則です。この原則が十分に理解できれば、〈B思考〉に陥ることも少なくなってきます。

それでもなお度々〈B思考〉に陥ってしまうというときには、〈B思考〉によって行われる「論理的な思考」とは正反対の、「非論理的な思考」を練習してみるという方法も面白いかもしれません。

これは先日の「パーミストリー実用講座」でも紹介した方法ですが、〈思考破壊〉と呼んでいる思考法です。たとえば・・・

「人間は動物だけど髪の毛やヒゲは植物だからね。栄養が必要なんだよ」
「それくらい知ってるよ。幼稚園のときにおばあちゃんに教わったし」
「じゃあジニ係数って知ってる?」
「あー痔になる痔になる!って思った時の痔になる確率でしょ?」
「確率なんていうほど難しいものだったの?」
「国立とも言うけどね」
「そうだよね」


・・・というような、こんな馬鹿げた会話を書いてみる練習です。つまりこれは、小学校1年生、あるいは幼稚園・保育園のころに戻って、たわいもないデタラメを考えてみるわけです。

この「思考破壊」とはまとめるとこんなものです。

その人の考えや言葉、思いなどよりも、その人の存在そのものを何よりも尊いものとして徹底して肯定する「肯定思考」を実践するために、そこで最も大きな障害となるB思考(支配力を持つ悪い思考)を停止させる力を養うために興津が提唱する非論理的でデタラメであることを重んじる思考法。そもそもは禅問答や、赤塚不二夫・杉浦茂の作品に触発されて生まれたもの。

小学1年生と書きましたが、天才バカボンと考えても面白いでしょう。バカボンのパパの名台詞に「忘れたくても思い出せないのだ」という言葉があります。赤塚不二夫先生には学生時代にお会いして、お話を聞く機会がありましたが、先生が天才バカボンなどで尊重してきたこととは、このような思考破壊だったのだと思います。

世の中が〈B思考〉によって支配されていることは、誰にも心地よいものでありません。それどころか、この社会が利己主義によって支配されて人心荒ぶものになってしまっているということです。〈B思考〉が支配的なこの世の中を少しでも良いものに変えたいということになれば、このような思考破壊もひとつのささやかな力になるのです。

思考破壊がもたらしてくれるのは、論理という名の実力による支配体制からひと時の解放を得ることです。このように思考破壊によって論理という思考を手玉に取り笑い飛ばしてみるのも良いことだと思います。