2013年6月13日木曜日

肯定思考と本当の存在

幸せになる方法、コスモロジカル・パーミストリーです。

手相+肯定思考=パーミストリー

本サイトで使用している「パーミストリー」という名称は、パームズネットで提唱するコミュニケーションメソッドを指します。

パームズネットにおけるパーミストリーは、単に「手相」を意味する英語というだけではありません。

パーミストリーは、自分と人との関係を一層親しいものにして、互いに生き、生かすことで、自分と人の本当の存在をいっそう崇高なものにすることを目的とします。

そのような高い目的を達成するために、パーミストリーでは【手相の基本技能】と【肯定思考】を実践していきます。



自分や人の本当の存在、属性という道具

私たちには、身体や脳が与えられていますが、身体も脳も、私たちの本当の存在の【持ちもの】であって、身体や脳は決して私たち本当の存在そのものではありません。

この【持ちもの】には、思考、言語、論理、記憶、性格など、脳の行なうものがあり、体力・容姿、体質、持久力、健康状態など、体に関するものがあります。またさらに、家族、交友関係、職業、身分、貧富など、社会に関するものもあります。これらをまとめて【属性】と呼びます。

私たちはたくさんの属性を持ち物として所有し、道具として使用して生きています。また、属性が私たちの個性そのものと見られることもあります。

体(風貌、体格)や言葉(思考、感情)などの属性は、目に見えたり耳に聞こえたりするものです。

一方で本当の存在とは、目に見えず、耳にも聞こえないものです。私たちはそれを「魂」とか「主観」などと呼んできましたが、そのような短い呼称をどれか用いるとすれば、「主体」としてもいいかもしれません。

私たちという各主体は、誰もが等しく、生物学的で物質的な「個体=道具」を支配することよって生きています。その道具とは、脳の力であり、体の力であり、社会的な力です。この世に生を受けてから、あの世に旅立つまで、私たちはこの道具を所有し、管理し、使用する責任を負わされていると見ることができます。

道具には上手な使い方、下手な使い方、正しい使い方、間違った使い方があります。例えば包丁という道具で考えればわかるように、上手に正しく使えば、おいしい料理を作って人や自分を喜ばせることができますが、下手に使ったり間違って使ったりすれば、人や自分を傷つけたり、さらに使い方が悪ければ人や自分を殺すという最悪の事態も起こり得ます。

包丁と全く同じように、私たちが所有している脳や体という道具も、上手に正しく使えば人や自分を幸福にすることができますが、下手に間違って使えば、人や自分の心や体を傷つけたり、生命を奪ったりすることも起こり得ます。

私たちが所有して使用する属性という道具は、使い方によって、幸福も生み出し得るし、不幸も生み出し得るものなのです。

つまり、私たちに脳や体などの道具が与えられているということは、人や自分を幸福にするために道具を正しく使う責任を負わされていると考えるべきでしょう。

正しく使えば、道具は幸福を生み出す尊い財産となるものです。

そのように考えれば、人や自分の幸福に貢献するために、私たちは個々に備わった道具を尊い財産へと高める義務も負っていることになります。



肯定思考とは親のような愛

私たち人類が共通して感謝する相手の代表といっていいのが、父や母、つまり親でしょう。中には親の資格がないという親もいるかもしれませんが、それはつまり、親とは子に対してどうあるべきかという答を、国や文化の違いなく、世界の誰もが知っているということでもあります。

親は子の存在を肯定します。その子が親に対してどんなに悪い態度を取っても、どんな悪い言葉で攻撃しても、親はそれに影響されることなく、子の成長や子の幸福を願って、子の存在を積極的に肯定するものです。

親が子に願うことを一言で言えば、「生きて欲しい」ということです。「生きる」とはどのようなことなのかを説明できなくても、親はただひたすらに子が生きていけるよう努力します。子が親に感謝するとしないとに関わらず、親は「子の存在を積極的に肯定する」=「子を生かす」という意志を持っています。

肯定思考とは「相手の存在を積極的に肯定すること」、実はこれが「愛」の根本的な定義です。愛という言葉には誤解が多く、情欲や支配欲までが愛と呼ばれたりすることがありますが、もしそれが相手のためではなく、自分の欲を満たすためであるのなら、それを「愛」と呼ぶことは望ましくありません。このように「愛」という言葉には誤解がつきまとい、個人によって解釈の違いがありますので、パーミストリーでは、肯定思考(Affirmative Aattitude = AA)としています。



人を生かし、自分を生かすための存在

ここまで、「人や自分」という言葉を多く使ってお話ししてきましたが、本当の存在そのものには、人と自分とを明確に区別する境界線はないと考えても良いでしょう。それに対して、自分という主体と自分の属性との間には、明確に区別する境界線を意識する必要があります。

ここではまず、人と自分の本当の存在に区別がないということをお話しします。

私たちの主体である本当の存在にとって、その存在の本来の存在意義とは、一言で言えば「存在することそのもの」です。それは、今ここにいることです。今ここにいて確かに存在しているということこそが、何よりも尊いことです。

そしてその存在とは、自分というひとりの存在だけが他と切り離されて存在するというようなことが決してありません。もし自分が存在するのなら、必ず他の人も存在します。それはあなたひとりについての話ではなくて、あらゆる人について同じことが言えるのです。もしあなたが存在するのなら、鈴木さんも佐藤さんも田中さんも高橋さんも望月さんも村松さんも白鳥さんも海野さんも小林さんも、みんながみんな、全く同じように存在します。あなたはあなた自身に自分の主観というものがあると感じていますが、それは他の人たちみんなにも、全く同じように主観があって、お互いの属性を見たり聞いたりしています。はっきりと異なるのは属性がもたらす表向きの違いだけで、本当の存在がそれぞれどのように異なるかを理解して説明できる人は誰もいないのです。

パーミストリーでは、まず互いの手を取って、互いの本当の存在を感じてみるという練習を行います。それは手相を見る以前の行為です。私たちは互いに異なる属性を持っていますが、手を取って感じる本当の存在に異なるところがあるとは感じられないでしょう。手を取って得られるのは、私たちの本当の存在が、属性の違いにも関わらず初めから自他の区別なくひとつだったに違いないという確信と感動です。

まず人の存在を尊敬か感謝のどちらかで、または尊敬と感謝の両方で肯定してください。それができれば、自分という存在も肯定できたことになります。

誰も尊敬しない、誰にも感謝しないという人は、ただ人の属性だけしか見えず、人の本当の存在を肯定していません。もし誰の存在も肯定していないという人がいれば、その人は自分の本当の存在も肯定していないということになります。

私たちの主体である本当の存在。その存在意義が何かといえば、それは「存在することそのもの」です。私たちの誰もが、今ここにいて確かに存在しています。それこそが何よりも尊いことなのです。私たちの存在は、人と自分の存在を肯定するためにこそあります。人を生かし、自分を生かすためにこそ、私たちは存在しているのです。