2013年6月10日月曜日

言葉、思い、パワースポット

幸せになる方法、コスモロジカル・パーミストリーです。


まず初めに、私たち人類が「精神的存在」で、万物のうち「最も神に近い」、などと考える必要はないということ。もっと謙虚でいいでしょう。

ガイア理論によれば、宇宙から見れば地球こそが自己治癒力のある生命体で、地表に蔓延った人類は地球の皮膚病ということになっているそうです。人口70億時代となり、14億人とも言われる広大な中国では大気汚染や水質や土壌の汚染が深刻で人の住めない土地も増え続けています。癌で亡くなる人も鰻登りに増えて、それに加えて新しい疫病も後を絶たないようですから、人類は地球の自己治癒力によっていよいよ減らされる運命なのかもしれません。

人類が人類を中心としてこの世を見れば、霊長類などといっても猿は猿で火も起こせませんし、イルカがいくら賢いといっても石器ひとつ作れないのですから、「人類は万物の霊長」という言い方をしたくなるのも仕方ないことかもしれません。しかし一方で、私たち人類が本当にこの世で尊い存在になるためには、他の種を絶滅させたり、空気や土地を汚して自分たちの住める場所を自ら失ったりするようなことは愚かであると、少なくともそう気付く必要があるでしょう。それに気付いてか気付かずにか、現実にたくさんの動物を絶滅させ、人が住めない土地を生み、水を汚して飲めなくするなどしているわけですから、これで他の動物たちより崇高な存在だなどと自惚れることは愚かなことに違いありません。

そう考えれば、もしかすると私たちはニホンザルよりもずっと愚かな存在に過ぎないのかもしれませんが、高度な文明を生み出してもいて、高い知能や科学技術など、どんな天才チンパンジーでも真似のできないことをこれでもかとしていますから、人類は明らかに他の動物とは違う特殊な能力を持っているといえます。

特殊な能力。その代表が、言葉だといってもいいかもしれません。文化の全ては言葉を基礎にしていて、文化が発展すればまた言葉も発展します。そんな特殊能力を持った人類ですが、有史以来は殺し合いの歴史だったと見ることすらできて、第二次世界大戦では4千万人以上の命が失われたといいます。

自分が損をするか得をするか。自国が損をするか得をするか。損をするとしたら誰のせいか。どの国のせいか。損をしないで得をするためにはどんな手段を取ればいいか。そんな勘定があって、競争があって、勝者と敗者を生み出してきたのが戦争でしょうけれども、一方で人類は平和を望み、調和や共存の道を模索してきています。

そもそも私たちがなぜ言葉を使用する生き物なのかを考えてみますと、そこに見えてくる大きな原理というものがあります。それは共存です。トラやライオンのように、一頭が単独で、あるいはごく少数の気心の知れた親族だけでずっと生きていけるということであれば、言葉などなくても良いはずです。言葉はそれを共通の伝達手段とする集団を生み出します。集団は言葉によって思考を互いに伝達し合い、様々な思考を共有します。言葉は常に、互いを生かし合うために使用されてきたはずです。互いの存在を肯定し合うことなく、逆に否定して良いということであれば、言葉などなくても良いはずですから、言葉が共存のためにこそあることは自明と言っていいでしょう。

言葉を共有する集団の中に生きる私たちは、ともすると言葉によって支配されるなどと考えがちです。そこでは「言霊」という概念をもって説明されることがありますが、「言霊」という表現には誤解が多いと思われます。言葉それ自体がひとつの実体として力を持つという考えをするのではなく、言葉が伝える特定の意味が、言葉によって生き続けると考える方が、誤解は少なくて良いのではないでしょうか。

特定の意味を集団全体で共有することができるのが言葉という道具の機能ですが、それは名前についても同じことでしょう。「大社」という名があって、その名がつけられた場所があって、その場所を築いた人たち、その場所に吸い寄せられるようにして集う人たちは、「大社」という名の持つ「意味」を共有しています。「意味」はさらに人々の思念を集めてその場所に集中して蓄積し、その場所に特別な力を与えるのかもしれません。

社寺仏閣に御利益などを求めて人々が集うことも、そこに説明不能な神様や仏様が実在するからではなく、そこに人々の思念が集中して大きくなっているからと考えてみてはどうでしょうか。

同じように、パワースポットといわれる場所があります。社寺仏閣はもちろんそうしたパワーを持っているでしょうし、それ以外の自然にできた特定の条件を備えた場所についても、その場所に対する思念が人々に共有され、思念がその場所に集中することによって一定の「パワー」になるとみることもできそうです。

神や仏が仮に実在するのだとしても、その実体は人々の思いの集合体だと考えることができます。人々の思いの集合体とは、ひとつの大きな意味を形成します。形成された大きな意味とはまた、人々の思いの集合体なのです。その思いはひとつのベクトルをもっています。

商売繁盛の神様というのがありますが、そこに集う人々が願うことは、自分の商売の繁盛です。集う人みんなが「商売繁盛」というひとつのベクトルをもった思いを持ち寄ってくれば、そこに大きな意味が形成されます。集う人ひとりひとりの思いは小さな力でしかなくても、そこに集うことによって、大勢の人々により集められた大きな思い、大きな意味に包まれたり大きな意味を感じることができます。それによって商売が繁盛するかどうかはもちろん定かではありませんが、ただひとり悶々としているよりは、そのような大きな意味の一部でいることを実感した方が、商売繁盛という目的地に到達しやすいように感じられるということもあるでしょう。

いずれにしてもそれは、本当の自分という存在が、ひとりぼっちではなくて、大勢の人たちと共存しているということです。共存を実感できれば、一人の力はもっと大きな可能性を持つのかもしれません。

この写真はポルトガルのファティマの礼拝の様子です。1917年に三人の子供たちの前に聖母マリアが現れて、いくつかの予言をしたということが、ローマ法王庁でも公認されていて、世界平和を願うクリスチャンの人々がこの地に集います。私は実はクリスチャンではないのですが、1986年の10月にここを訪れ、この写真のような壮大な光景を経験しました。

聖母マリアが実際に現れたというのは、信じる人々にとっては事実以外の何物でもないのでしょう。ではどうしてそんな奇跡が起きるのかといえば、すでに説明したように、ひとつの思いがしっかりと共有されているからでしょう。大きな思いがひとりひとりに同じ思いとして共有されていて、それを真実だと信じて疑わない。そうすることによって、「真実」は精神的に実在するものへと変わるのだと思います。

もちろんこれは宗教です。宗教である以上、それが全人類に共有されるものとはならないでしょう。宗教とは、タブーを持つものです。タブーを定めることによって辛うじて維持される、それが宗教だと言ってよいかもしれません。 キリスト教徒にとって、キリストや聖母マリアが実在したことは「真実」とされています。たとえそれが科学的には嘘だったとしても、大勢の人々が同じ思いを共有しているのですから、共有しない人から「嘘だ」と指摘されても揺らぐことはありません。

宗教がもし、科学的事実に反することによって成り立っているのであれば、他の宗教とは相容れないものとなります。そこには必然的に対立も生じます。

宗教対立による殺し合いは今世紀になってもまだ続いています。これをなくすためには宗教の根本的なあり方を見直すより他にありませんが、それも極めて困難なことのようです。