2015年3月7日土曜日

主人にしてはいけないもの…

イスラム国というテロ集団が猛威をふるっています。極めて残忍で、日本人も殺されました。同じ人間なのに、どうしてそんなことができるんでしょう?

その問いに、簡単に答を出すなら、それは「主人にしてはいけないものを主人にしている」ということ、そしてその「主人」とは、「思想」だということです。

思想とは、思考や行動の基準になることです。

かつて日本でも、オウム真理教が無差別殺戮を繰り返しました。そこにも「思想」がありました。信者たちは全員がその「思想」の下僕となって、教祖と、教祖の決めた「思想」によって操られ、無辜の人々を殺したのです。

「間違った思想」を「正しい思想」にするというのも大変なことで、周囲がいくら「間違った思想だ」と指摘しても、当人はそれが「正しい思想」だと信じこんでいますから、どうにも始末が悪いのです。

ですから、思想と名のつくもの全てには、さらに崇高な基準が必要です。その基準となるのが、「共存」です。

共存を絶対優先とする。身近な人の存在を尊いものとする。いっしょにいることが何よりも尊い。そういう当たり前のことをしっかりと共有すれば、どんな思想が入ってきても、誰かを排除するとか無視するとか殺すとか、思想からのそんな要請があったときには、「その思想が間違っている」とはっきり認識できるはずです。

私たち現代人は、様々な「思想」に取り囲まれているのかもしれません。自分の考え方や行いが、正しいかどうか、常に「共存」を最高位において、常に冷静に判断して生きたいものです。

2015年1月4日日曜日

元日は久能山東照宮に初詣。

仕事をたくさんいただいて、お正月らしくないお正月でしたが、それがかえって充実感いっぱい。本当にありがたいことだと思います。いよいよ明日5日(月曜日)は平日が帰ってきてくれます。これもありがたいことです。

写真は、元日の久能山東照宮初詣の様子。沖縄から来てくださった玉寄先生ご夫妻を迎えて、日本平ロープウェイで参じました。帰りは暗くなって、お正月ならではの夜のロープウェイ。

*写真をクリックするとスライドになります。







2014年12月31日水曜日

2015年も一層良い年になりますよう。

2014年は、講座を受講してくださっている皆さんにも大変お世話になりました。
2015年は、また改めて “手相” というツールの尊さを見なおして、一層楽しい講座ができるようにがんばってまいります。

A思考で行きましょう!
どうぞ良いお年を!!

思考革命、コスモパーム。準備完了!


まず短く。
「コスモロジカルパーミストリー」→「コスモパーム」

そしてひとつに。
「個別指導」+「初級講座」+「中級講座」→「コスモパーム」

今まで広がってしまっていた表現をひとつに。
→ 《自己実現》コスモパーム

これまでの講座は、「パーミストリー入門講座」となります。

さらに、個別指導は、「コスモパームセッション」となります。

どちらも、思考革命コスモパームの新しいウェブサイトにてご案内いたします。
コスモロジカルパーミストリーは、コスモパームへ。

人類の思考を革命するために再起動しますので、今後ともよろしくお願いいたします!

*当サイト「パームズネット」は、ブログ記事専用サイトとなります。

2014年12月21日日曜日

子育ての短歌

長女8歳、次女5歳にそれぞれなったばかりの時から父子家庭をやってきました。実はそれよりもずっと前から事実上の父子家庭でしたから、父親ではあっても母親の役も兼ねるという生活をしてきたわけです。

いろいろ、ありましたが、今、静岡県で短歌を募集していて、「あいのうた」というタイトルで、子育てにまつわるものとのことなので、ちょっと応募してみました。


自分も応募してみたいという方は、下記をご覧ください。

▶ あいのうた

2014年11月24日月曜日

顔が変わってしまう・・・という恐怖!

あどけない笑顔がとてもかわいかったアイドルタレントさん。人並みの人生もしたい!ということで恋愛して、結婚して・・・と、そこまでは良かったんですが、やっぱり離婚!芸能生活をメインにしてまたがんばります!・・・なんていってテレビに再登場したりしています。

「大人になったね」
そんな感想を持たれるぐらいならいいんですが・・・

「ちょっと怖い感じになった」
・・・とか、
「なんか人相悪くなってる」
・・・とか、
「老けてはいないけど、性格悪そうになった」

・・・なんて思われたりすることもあるようで・・・。

どうしてそんなふうに、顔が変わってしまうんでしょう?

パーミストリー講座を受講してくれた皆さんなら、すぐわかりますね? そう。B思考が、人の顔を険しくするんですね。

険しくなってしまったタレントさんにも、是非、パーミストリー講座を受講していただきたいものです。

さあ、これからのパーミストリー講座のご案内です。

  • 最少2名から、開講します。
  • 5時間で1万8千円です。
  • 2時間半ずつ2回にわけて受講することもできます。
  • 会場は、アドマック出版の専用ルームです。

詳しくは、コスモパームのサイトをご覧ください。

2014年11月5日水曜日

怒りのカラクリ

(C) iStock Photo


ダライ・ラマ14世法王猊下は「怒り」を人類にとって不幸をもたらす悪いものとおっしゃっていますが、当コスモパームではもう一歩踏み込んで、「人はなぜ怒るか?」を理解することをおすすめしています。

怒りやイライラには、カラクリがあるんです。

簡単にいえば、怒りは「希望」「期待」「望み」「要求」「欲望」・・・といった「思い」が主な原因になっています。

「希望」「望み」などと聞くと、そのような思いを持つことは「悪いことではない」と考えてしまいがちですが、「希望」をもって行動したり、言葉を発したりして、結果がその「希望どおり」にならない時、私たちはがっかりしたり、怒ったりするのです。

ただひとり寂しくがっかりするだけならさほど問題にはならないのですが、多くの場合、「思いどおりにならない」ことに対して、いら立ちをおぼえ、自分以外のところに思いどおりにならない原因を見つけると、それに対して怒りをおぼえます。「誰々のせいだ!」「何々のせいだ!」という具合です。

たとえば、私はコーヒーが好きで毎日飲んでいますが、一日に何度か、ゆっくり落ち着いてコーヒーを飲みたいという「思い」があります。そしてできれば一緒にタバコも吸いたいという「思い」があります。

そんな思い(希望)が、思いどおりになれば気分も良いのですが、時にはそれがかなわないということもあります。たとえば、仕事の合間に玄関先へ出て、今微かに湯気をあげているコーヒーを片手に、今火をつけたばかりのタバコをゆっくり吸おうとしているとき、家の中で電話の音がして、すぐにタバコを消さなければならなくなった、というような時、せっかくの良い気分が害されます。

まあしょうがないかとタバコを消して家に入り電話に出ると、それは間違い電話だった、なんてことになると、タバコ1本、まるまる損をしたような気分になって、1本25円、返して欲しいとさえ思います。そんな時に怒りをおぼえるわけです。

もっとも、この程度のことならすぐに忘れることもできるから、大した問題にはなりませんが、もっとひどい時もあります。

特にありがちなのは、車を運転している時ですね。すいすいと順調に走ってきた時、そのペースで走っていれば時間に間に合うなと思っていたところ、前方にこっちを向いたあり得ない車がいます。右側駐車をしようとしていて、行く手を完全に塞いでいるんです。ブレーキをかけて停車せざるを得ませんから、後ろから来た車も次々に停車します。クラクションを鳴らして、すぐにどいて欲しいという意思表示をしますが、さらにあり得ないことに、道を塞いだ車から運転手が下りてきて大きく手振りをし、「しばらく待て!」と言っているようです。道路はみんなのものです。しかもその車は反対車線にいるんです。

ここで怒らなかったら、人生いつ怒るんだというぐらい、怒りの感情が湧きあがってきます。

ここでも怒りの感情というものは、「ルールを守ってほしい」「守るべきだ」という「思い」に始まっています。

そんな状況なら誰だって怒るだろうとは思いますが、もし仮にその時、自分が泥酔していて笑い上戸になっている状態だったりしたら、怒りをおぼえることはないでしょう。あるいはまた、ルール無視でこっちを向いた前方の車が、実はそうすることでしかその近くにいた人の命を救うことができない状況だったということがわかった時も、怒りをおぼえることはなくなります。

怒りをおぼえない二つのケースをあげてみましたが、前者は「自分が笑い上戸になっていて怒りをおぼないケース」、後者は「相手の状況をよく理解できて怒りをおぼえないケース」です。二つのケースに共通しているのは、相手に対する「自分からの一方的な希望、要求、期待」がないということです。

「怒りは悪いことだから怒ってはいけない」と言われても、はいそうですかと、すぐに怒りを止めることは難しいことです。

そこでなんとしても怒りをおぼえないようにしようと思ったら、自分が今どんな「思い」なのか、自分自身の「思い」をチェックしてみること、是非これをおすすめしたいと思います。

2014年10月22日水曜日

感動する話、人を生かす意志の話


俺には母親がいない。
俺を産んですぐ事故で死んでしまったらしい。
産まれたときから耳が聞こえなかった俺は
物心ついた時にはもうすでに簡単な手話を使っていた。

耳が聞こえない事で俺はずいぶん苦労した。
普通の学校にはいけず、障害者用の学校で学童期を過ごしたわけだが、
片親だったこともあってか、近所の子どもに馬鹿にされた。
耳が聞こえないから何を言われたか覚えていない(というか知らない)が
あの見下すような馬鹿にしたような顔は今も忘れられない。

その時は、自分がなぜこんな目にあうのかわからなかったが、
やがて障害者であるということがその理由だとわかると
俺は塞ぎ込み、思春期の多くを家の中で過ごした。
自分に何の非もなく、不幸にな目にあうのが悔しくて仕方がなかった。

だから俺は父親を憎んだ。
そして死んだ母親すら憎んだ。
なぜこんな身体に産んだのか。
なぜ普通の人生を俺にくれなかったのか。

手話では到底表しきれない想いを、暴力に変えて叫んだ。
ときおり爆発する俺の気持ちを前に、父は抵抗せず、
ただただ、涙を流し「すまない」と手話で言い続けていた。

その時の俺は何もやる気がおきず、荒んだ生活をしていたと思う。

そんな生活の中での唯一の理解者が俺の主治医だった。
俺が産まれた後、耳が聞こえないとわかった時から、ずっと診てくれた先生だ。
俺にとってはもう一人の親だった。

何度も悩み相談にのってくれた。
俺が父親を傷つけてしまった時も、優しい目で何も言わず聞いてくれた。
仕方がないとも、そういう時もあるとも、そんな事をしては駄目だとも言わず、
咎める事も、慰める事もせず聞いてくれる先生が大好きだった。

そんなある日、どうしようもなく傷つく事があって、
泣いても泣ききれない、悔しくてどうしようもない出来事があった。
内容は書けないが、俺はまた先生の所に行って相談した。

長い愚痴のような相談の途中、
多分「死にたい」という事を手話で表した時だと思う。

先生は急に怒り出し、俺の頬をおもいっきり殴った。
俺はビックリしたが、先生の方を向くと、さらに驚いた。

先生は泣いていた。

そして俺を殴ったその震える手で、静かに話し始めた。

ある日、俺の父親が赤ん坊の俺を抱えて先生の所へやってきたこと。
検査結果は最悪で、俺の耳が一生聞こえないだろう事を父親に伝えたこと。
俺の父親がすごい剣幕でどうにかならないかと詰め寄ってきたこと。

そして次の言葉は俺に衝撃を与えた。

「君は不思議に思わなかったのかい。
 君が物心ついた時には、もう手話を使えていた事を。」

たしかにそうだった。
俺は特別に手話を習った覚えはない。じゃあなぜ・・・

「君の父親は僕にこう言ったんだ。

『声と同じように僕が手話を使えば、この子は普通の生活を送れますか』

 驚いたよ。
 確かにそうすればその子は、声と同じように手話を使えるようになるだろう。
 小さい頃からの聴覚障害はそれだけで知能発達の障害になり得る。
 だが声と同じように手話が使えるのなら、もしかしたら・・・
 でもそれは決して簡単な事じゃない。
 その為には今から両親が手話を普通に使えるようにならなきゃいけない。
 健常人が手話を普通の会話並みに使えるようになるのに数年かかる。
 全てを投げ捨てて手話の勉強に専念したとしても、とても間に合わない。
 不可能だ。僕はそう伝えた。
 
 その無謀な挑戦の結果は君が一番良く知ってるはずだ。
 君の父親はね、何よりも君の幸せを願っているんだよ。
 だから死にたいなんて、言っちゃ駄目だ。」

聞きながら涙が止まらなかった。
父さんはその時していた仕事を捨てて、俺のために手話を勉強したのだ。
俺はそんな事知らずに、たいした収入もない父親を馬鹿にしたこともある。

俺が間違っていた。
父さんは誰よりも俺の苦しみを知っていた。
誰よりも俺の悲しみを知っていた。
そして誰よりも俺の幸せを願っていた。

濡れる頬をぬぐう事もせず俺は泣き続けた。
そして父さんに暴力をふるった自分自身を憎んだ。
なんて馬鹿なことをしたのだろう。あの人は俺の親なのだ。

耳が聞こえないことに負けたくない。
父さんが負けなかったように。

幸せになろう。そう心に決めた。

今、俺は手話を教える仕事をしている。
そして春には結婚も決まった。
俺の障害を理解してくれた上で愛してくれる最高の人だ。

父さんに紹介すると、母さんに報告しなきゃなと言って父さんは笑った。
でも遺影に向かい、線香をあげる父さんの肩は震えていた。
そして遺影を見たまま話し始めた。

俺の障害は先天的なものではなく、事故によるものだったらしい。
俺を連れて歩いていた両親に、居眠り運転の車が突っ込んだそうだ。
運良く父さんは軽症ですんだが、母さんと俺はひどい状態だった。
俺は何とか一命を取り留めたが、母さんは回復せず死んでしまったらしい。
母さんは死ぬ間際、父さんに遺言を残した。
「私の分までこの子を幸せにしてあげてね」
父さんは強くうなずいて、約束した。
でもしばらくして俺に異常が見つかった。

「あせったよ。お前が普通の人生を歩めないんじゃないかって
 約束を守れないんじゃないかってなぁ。
 でもこれでようやく、約束…果たせたかなぁ。なぁ…母さん。」

最後は手話ではなく、上を向きながら呟くように語っていた。
でも俺には何て言っているか伝わってきた。
俺は泣きながら、父さんにむかって手話ではなく、声で言った。

「ありがとうございました!」

俺は耳が聞こえないから、ちゃんと言えたかわからない。
でも父さんは肩を大きく揺らしながら、何度も頷いていた。

父さん、天国の母さん、そして先生。
ありがとう。俺、いま幸せだよ。

2006年2月13日、2ちゃんねるへの匿名投稿より

2014年10月15日水曜日

二元思考をしない人になる

在特会というヘイトスピーチを行なう団体があって、韓国や在日韓国人がこれまでやりたい放題、言いたい放題に日本を誹謗中傷してきた非道の数々に対して怒りを表し、日本全国にその怒りへの賛同者を募ろうとしています。これはまずいことだなと気づいている人もいますが、それに賛同する人たちがどうやら増えているようでもあります。

ヘイトスピーチの賛同者は「これはヘイトスピーチではない。事実を指摘しているだけのことだ」と認識していたりしますが、それというのはつまり、「ヘイトスピーチ」の意味がよくわかっていないとしか言いようがありません。

ヘイトスピーチとは、憎悪を主張したり、相手の憎悪を煽ったりすることです。だからいくらそれが事実だからといって、憎悪の感情にまかせて集団で怒りをぶつけたり、相手に憎悪されることを厭わず相手の憎悪を煽ったりすれば、それはどこまで行ってもヘイトスピーチなのです。

「反原発運動」などの政治運動にも、これと同じような傾向が見られます。東京電力福島第一原子力発電所の事故以降は、それまで原発などには無関心だった人たちまで、にわかに問題意識を持つようになり、「原発=悪」「経済界=悪」「原発容認派=悪」という扇動を歓迎し、「原発は悪いものだから、それに反対しない人も敵だ!」というように叫ぶようになりました。そう叫ぶことが「正しいこと」と信じて疑わないのです。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに、憎悪する対象が直接の対象にとどまらず、その周辺や関連する人や物事にまで拡大していきます。憎悪とは、そういうものなんですね。

そうした状況に違和感をおぼえて、そこに不穏な憎悪が渦巻いていると察知した人たちは、そうした運動から徐々に遠ざかって行きますから、当初は何百人という大きな規模だったデモも次第に小さくなっていって、「プロ市民」のような人たちばかりになるという傾向もあるようです。憎悪が悪いものだということを直感的にわかっている人も多いということです。

私たちも自分のことを振り返ってみますと、誰でも誰かを憎んだことがあるのではないでしょうか? (そんなことは一度もないという人がいたら羨ましい限りですが) 私も人生五十年以上、いろんな人を憎んだり、恨んだりしてきたと思いますが、幸い、憎悪を続けるだけの体力や執着がなかったおかげで、深刻な状態、つまり深刻なB思考に陥ることはさほどなかったように思います。

そこで今回は改めて、「憎悪のどこが自分にとってマイナスか?」ということを、客観的に考え、ちゃんと知っておくことにしましょうか。

まず、憎悪という感情の一番悪い点は、「自分が正しくて相手が間違っている」という、「自分=善 vs 相手=悪」の二元思考になってしまうことです。
二元思考になって、どちらか一方を正しく、他方を間違いと認識してしまうと、第三者から「君が気づいていない別の考え方もあるよ」と、親切心から指摘された場合でも、「君は正しくない」とケンカを売られたように感じてしまって、指摘してくれた親切な人を憎悪するということも起こるのです。

二元思考の頭の中には「善の側=自分の側」と「悪の側=敵」という、2つしかありません。それで、自分を疑う人は敵だという単純な思考になってしまうことになるのです。

自分の言うことを何でも「はい、その通り。あなたはとても正しい」と、肯定してくれるばかりだったら、それはそれで、とても気持ちのいいものなのかもしれませんが、現実は「自分側か敵か」という二元思考では解決できないことばかりです。むしろそうした二元思考では、悪い事態がますます悪くなるばかりです。

たとえば「韓国が悪事の限りを尽くして日本を崩壊させようとしている」ということが仮に事実だったとしても、事実はそれだけではないと考えなければなりません。

「原発は人類を滅亡させる」という話になると、それは未来のことなので事実かどうかわからないのですが、原発反対派にとっては、原発=悪という見方を絶対のものとして疑うことができなくなってしまっているのですから、「原発が悪とは限らないよ」などと指摘しようものなら「そんなことを言う人は悪だ」と激怒されてしまいます。しかも「事実がわかってない!」と攻撃されてしまうでしょう。

その「攻撃」には、原発反対論を正当化できる事実、つまり「原発=悪」の「根拠になる事実」が、これでもかとばかりに繰り出されてきます

もっとも、原発が人類にとって危険なものであり、悪ければ人の命を脅かすものであるということは、もう何十年も昔からわかっていたことでした。しかし実際には、原発事故による犠牲者数というのは、「圧倒的な便利さ」とその「使用される規模」から見ると、「大したことはない」という見方もできるのです。

これは、「飛行機は他の交通手段に比べて事故に遭う確率が低い」という論理と同じものです。飛行機はひとたび墜落すれば乗客乗員全員が死んでしまいますから、その意味でとても危険な乗り物だと感じられるのですが、自動車や鉄道、船舶などによる事故の確率と比べると、飛行機のほうがずっと低くて安全だというわけです。

原発も、ひとたびメルトダウンなどの事故になれば、人を殺しかねない放射能があたりを汚染してしまうという「危険な道具」ですから、行政が「原発は使用させない」という決定を下すことで原発の使用はひとまず停止させることができます。

実は同じように「危険だから使用させない」とするべき便利な道具があります。それは自動車です。誰でも自動車を所有したりそれを運転したりできる世の中になってはいますが、自動車が自由に乗れることによって、日本だけでも毎年数千人規模の犠牲者が出ています。世界規模では想像もつかないくらい大勢の人たちが、自由に走る自動車によって殺され続けているわけです。

「犠牲者を減らす」という目標を立てて、それを実現させる方法として、最も確実なのは、自動車の販売や運転免許の交付のルールを限りなく厳しくすることでしょう。たとえば、公共交通であるバスの運転手として正式に認められた人だけが、バスを運転するという制度を作るのです。そして一般の人たちが自動車を所有したり運転したりすることを全面的に禁止するのです。

「犠牲者を減らす」という目的を達成させるためなら、以上のような方法が最も確実ですし、行政としては、なんとしても実行すべき対策になるはずです。

この対策に、何か問題があるとすれば、その最大の問題は、自動車産業が壊滅的な打撃を受けることでしょうか。でも考えてみたら、ここまで自動車産業に経済を依存するようになってしまった最初の段階、つまりモータリゼーションを始めた時点こそが間違っていたと考えることもできます。

アメリカでいえば、1920年代、日本なら、1945年の敗戦直後ならまだ自家用車はほとんど走っていませんでしたから、その時点で自動車の個人所有を禁止し、戦前から走っていたバスを増やすだけにしておけば良かったのです。そうすれば、毎年数千人の人が殺されるという、今のような最悪の状況にはならなかったはずです。

とはいっても、自家用車がここまで便利なもので、経済を支え、交通を担っているというのが今の現実で、その「メリット」というものも大きなものがあります。年間数千人が殺され続けるという「デメリット」は変わらないでしょうけれども、個人で自由に自動車を所有することがここまで当たり前になってしまってから、そのメリットを全て捨ててしまおうという「運動」は、なかなか起きないのです。

そして、社会の結論は「安全を心がけて使え」というところに落ち着きます。

さて原発ですが、犠牲者はほぼゼロといっていいくらい、ほとんど出ていません。それでも危険な道具であることには何ら変わりはありませんから、できることなら全部停止させて、二度と使わないようにした方がいいでしょう。それは、原発は危険だという無視できない「デメリット」があるからです。

一方で、「メリット」もあります。発電コストを下げることで、経済に貢献します。自動車と比べてどうかということまではわかりませんが、事故なしで使うことさえできれば、環境問題にも貢献しますから、そのメリットは大きなものです。

そして、これまでの社会の結論は「安全を心がけて使え」というところに落ち着いてきたわけです。この点も、自動車と同じです。

原発を使い続けるべきか否か、その結論をここで出すつもりはありませんが、「原発は危険だから絶対に悪である」という、「善悪二元思考」で考えるようなことをしてしまえば、それに同意しない人全員を敵視するという愚かな事態に陥ります。

私たちが陥ってはいけないのは、「人類は我々か敵かの二種類だけだ!」という、善悪二元思考に陥ることです。善悪二元思考こそが「憎悪」の原因であり、「ヘイトスピーチ」を生み出すわけです。

もし人類を二分するとすれば、それは「敵 vs 味方」ではなく、「二元思考で見ている人 vs 多面的に見ている人」の二種類なのかもしれません。

作文する時間の制約もあって、今ひとつまとまっていないかもしれませんが、どう考えどう行動するかを考えてみるきっかけになれば幸いです。

2014年10月3日金曜日

ヘイトスピーチについて。

【 韓国に対するヘイトスピーチ 】

インターネット上では「言論の自由」を謳歌するかのように、何でも言っていいと考える人たちが少なくないようで、それがトラブルの原因になったり、偏った同じ考えの人たちがグループを作って反対の考えの人たちと対立したりしています。ネット上での「戦争」みたいなことも起きているわけです。

とりわけ日本と韓国の問題は、地理的に近すぎるせいもあって、「親日」「反日」「親韓」「嫌韓」などといった漢字ふた文字で、「どっちにつくのか?」「どっち側の人間か?」といったことをはっきりさせることが必要なことだと考える人が増えています。しかも「日本人なら韓国を憎むのが当然で義務だ!」というような考えの人がすごい勢いで増えているようで、書籍のベストセラーにもそうした「嫌韓本」が並ぶようになりました。今まで一般の日本人が知らなかった事実を知らせるという目的に限れば、それも大いに必要なことなんですが、「だから国を挙げて韓国を憎悪しよう!」というのはどうなんでしょう? 過去には実際に、「国を挙げてアメリカを憎悪しよう!」という政策が実行されたことがありますので、その過去にさかのぼってみましょうか。


【 大政翼賛会に始まる戦前のヘイトスピーチ 】

そもそも戦前の日本人は、イギリスやアメリカが大好きという人も多かったんですが、ソ連の謀略もあって対英米開戦ということになってしまった結果、「一億火の玉」になって「米英を撃滅」しなければならないという「大政翼賛会」が始まり、その「全体主義」が支配的となって、「鬼畜米英」などという目を覆いたくなるようなスローガンまで叫ばれるようになってしまいました。

大政翼賛会は、日本国内の政治を行なう上で意見の違う政党が互いに対立するようなことはなくしてしまった方がよいとする考え方に始まるもので、現代でいえば北朝鮮のような政治体制を目指したものだと思っておけばわかりやすいかもしれません。

そうして「一枚岩」となった日本の政治は、反対意見を言うことができなくなっていき、新聞、雑誌やラジオなどの報道機関に対しても、日本が戦争で勝たなければならないという目的が最優先されるようになり、それまでの自由な言論は厳しく管理し統制されました。

日本中に「戦意高揚」を叫ぶスローガンが溢れ、日本軍が不利な情報を流さないようにもしたために、国民は「日本がきっと勝つ」と信じて、無理な考えや無理な活動でも一丸となって受け入れてがんばることになったんですね。


【 憎悪による支配 】

もちろん本音としては、イギリス文化やアメリカ映画が好きだという人も多かったはずなのですが、それは「敵国」だということで、「好きだ」などとはとても言えない空気が日本を支配してしまいました。さらに、「お父さん、戦争へ行ったら敵をたくさんやっつけて来てね!」などというセリフを女の子にまで言わせて、それが「模範的な日本の子供」だという宣伝もされていました。戦時中の日本映画を見ると実際に出てきます。(成瀬巳喜男監督『まごころ』昭和14年)

それに反対すれば「非国民」との誹りを免れませんから、そういう時代、そういう時だと思って生きるしかなかったわけです。まだ未成年の息子たちまでお国のために命を捧げることが「正しい」とされて、アメリカを憎み、戦争最優先で生きました。

もちろんそれは、敵国であったアメリカでも似たようなもので、「ジャップを殺せ!」と叫んでも、褒められこそすれ、非難されることはなかったんでしょう。


【 憎悪の愚かさを知った日米国民 】

戦争が終わって、アメリカは戦勝国に、日本は敗戦国になりましたが、お互いに理解し合おう、助けあおうという気運がすぐに盛り上がったのは、戦時中に続いてきた「憎悪すること」の愚かさを、庶民レベルでも身にしみてよくわかっていたからです。

さて、日本が敗戦国となって69年。これはもう本当に長い年月が経ったものだと思いますが、殺せと互いに憎みあうことの愚かさを記憶している人も、年月とともに次第に少なくなってしまったのかもしれません。

戦時を経験していないからしょうがないのだといえばそれまでですが、隊列を組んで堂々と「韓国人を憎め!」とヘイトスピーチに繰り出す人たちが、インターネット上では喝采をもって歓迎されている様子を見ると、やはり私たちはまだ十分に歴史に学んではいないのだと思えてなりません。


【 憎悪が憎悪を煽る。そして地獄へ 】

憎悪を露わにすることは、相手の憎悪を煽ります。互いに憎悪を増幅しあった先にあるものは、不幸を超えたこの世の地獄です。

韓国の李明博大統領や朴槿恵大統領がその憎悪を日本に向けたことなど、韓国の側からの憎悪がそもそもの始まりだと思います。確かに感情的には韓国人によって憎悪を煽られているわけですから、それに対抗してこちらからも「韓国こそが嘘をついていて悪なのだ」と声高に非難することで溜飲を下げたいと思ってしまいます。でもそれは、家庭や親しい友人止まりにしておくべきことで、何十人、何百人という大きなグループを作って叫ぶようなことをしてしまえば、また戦前と同じ間違いを繰り返すことになります。また悲惨な戦争をするしかなくなるんです。


【 相互理解を求める姿勢が憎悪を生む 】

たとえ相手が一方的に悪いのだとしても、見せるべきは相手を「憎む姿勢」ではなくて、まず「理解する姿勢」です。

日本人は何かにつけて「相互理解」という言葉を好みます。でもこの「相互理解」、疑っておく必要がある言葉です。

「相互」という言葉には、相手からの理解が前提になります。相手がこちらを理解することを、相手側に求め、期待します。日ごろ『パーミストリー講座』でもお話ししているとおり、相手への希望や期待は、裏切られることで「怒り」へと変わります。つまり、「相互理解」という限りは、相手から裏切られて相手を憎悪する原因を自ら作ってしまうということです。

ですから、向かうべきは「相互理解」ではなく、少なくとも自分だけは相手を理解してやろうという姿勢です。それがこちらからの一方的なものになってもかまわないから、とにかく相手をとことん理解しようという姿勢が必要なんです。


【 自分からの理解を全てに優先させる 】

また、「相手の立場に立って考える」という言葉も私たちは好んで使いますが、それが簡単でないことは小学生にもわかります。本当に相手の立場に立つには、必死になって相手を理解しなければならないからです。その理解ができてはじめて、相手の立場に立つことができ、そこから本当の問題点を見つけることもできるようになります。

相手のことを十分に理解できた上ではじめて、相手の間違いを指摘することもできるようになるというわけです。そうではなく、不十分な理解で相手の間違いを指摘しても、相手は自分の方が正しく、こちらの指摘が間違っているとしか考えません。


【 民度の違いとは、憎悪に短絡するか、理解する努力に行くかの差にある 】

ヘイトスピーチに血道を上げれば、「相手にもっと自分のことを憎んでもらおう」と宣伝することにしかなりません。それでは相互の対立が深まるばかりで、自分の利益にも日本の国益にもならないどころか、自分や国の値打ちをおとしめることにしかならないんですね。

もし韓国の大統領が愚かな日本憎悪の言動を見せたというのだったら、それを「どう理解したらいいか?」「どんな裏の事情があるのか?」といったところにまず視点をもっていきたいものです。いきなり対立の当事者になるのではなく、まず「名探偵コナン」になるんです。そこから始めてこそ、本当に自分と自分たちの利益につながる指摘もできるようになるはずです。

これについては、個人と個人の問題でもまったく同じことがいえます。もし自分を憎んでいる人がいたら、どうしてそうなったかについて、とことん知ってみたいという「理解への意志と意欲」をもつことが、解決の第一歩です。


【 頭にきてしょうがないときは? 】

とはいっても、私たちはいたって感情的な生き物で、そういつもいつも冷静でいることはできませんし、自分が攻撃の対象にされているとなれば穏やかに考える余裕もなくなって普通です。

そんな時には、知らばっくれてあさっての方向に顔と意識を向ける努力をするとか、とにかくまず間に人を立てるとか、そういうところから始めるしかないのかもしれませんが、常に失ってならないのは「理解への意志と意欲」なんですね。


【 在日特権を許さない市民の会の功績 その1 】

「在日特権を許さない市民の会」(略称:在特会)の桜井誠会長という方は、書いた本がベストセラーになるなど、人を引きつける魅力をもった素晴らしい人だとは思います。桜井さんの果たしてきた功績というものも確かにあって、それはまず、認めないわけにはいかないでしょう。

まず、在日韓国朝鮮人に認められている「特権」というものが現実の日本に存在しているということを、日本人一般に知らせたという功績です。同じ外国人なのに、元日本人だった韓国朝鮮人には認められて、その他の外国人には認められないという「特権」があるんですね。韓国朝鮮人が本名を名乗らず、「通名」という、いわゆる偽名によって生活できてしまうことなど、どう考えてもおかしいということがいろいろあるようです。おかしなことは改めるというのが当たり前ですから、行政を担当する人たちにもその点に気づいてもらい、政治的に解決する必要があります。そのきっかけを在特会が作ったということなら、それは大きな功績になると思われます。


【 在日特権を許さない市民の会の功績 その2 】

もうひとつ、大きな功績だろうと思うのは、韓国に対して強い反感をもっている人たちの溜飲を下げたことです。李明博大統領や朴槿恵大統領が、日本人の憎悪を煽るような、とても一国の大統領とは思えない民度の低い言動を見せて、それに対して頭に来た日本人は決して少なくありません。

何しろ、韓国は「反日」でなければ国が成り立たないという、とても不幸な建国精神をもっていますから、そんな国が隣にあるというだけでも、私たち日本人は安心して暮らすことができません。

反日は大統領に限らないことで、日韓共同開催だった2002年サッカーワールドカップや、その他の様々なスポーツ大会での、民度の低い韓国人による反日的な「自己アピール」も目立ちました。もちろんそれが韓国人の全員の考えではないのですが、何しろ反日国家ですから、スポーツの場で偏った政治的主張をすることを、恥ずかしいとも思っていないわけです。

そのような反日韓国と反日韓国人に対する、日本人の日ごろの鬱憤を晴らしてくれたというのが、桜井会長率いる在特会の果たした大きな功績として認めないわけにはいきません。


【 それでも在特会がダメなわけ 】

それでも在特会は「ヘイトスピーチ」だと指摘されて嫌われてしまいます。なぜダメなのか、その理由は次の二つです。

 (1)憎悪(Hate)の存在が明確であること。
 (2)腹いせ(Spite)が言動の目的であること。

在特会はそれを隠そうともしていないようですが、その主張と行動のほとんど全てが、憎悪と腹いせ( Hate and spite )なんです。

「憎悪の対象を特定し、大衆にその憎悪を煽って団結させ、主張と行動ですっきりさせる」

このような方法が愚かであり、間違いであるということは、すでに上の【 憎悪による支配 】などで書いたとおり、その先には、不幸な地獄が待っているということです。それを歴史に学ばなければなりません。

少なくとも政治家や、こうした市民運動を先導する人たちは、大勢の人々の命運を握っているわけです。桜井会長には、到底そうした自覚があるとは思えません。


【 もうひとつ、わかりやすい例 】

 腹が立って心が壊れそう → すぐ相手を攻撃する → すっきりする

 疲れきって心が壊れそう → ヘロインを注射する → すっきりする

ヘロインを使ったことがないのであくまでも知識としての話が含まれますが、私たちは疲れたり、腹が立ったりしたときに、それをすぐにすっきりさせたいという衝動を覚えます。

それをすぐにすっきりさせる方法が、麻薬であったり、相手への攻撃であったりします。ところが、そのような方法ですっきりしたと思っても、それは絶対に、根本的な解決にはなりません。

2014年9月30日火曜日

パワースポット久能山東照宮

徳川家康公の墓 久能山東照宮

静岡市の駿河湾沿い、シーズンにはイチゴ狩りで賑わう久能海岸にそびえ立つ久能山、その山頂に、久能山東照宮はあります。

まだあまり知られていないことですが、この久能山東照宮、全国に二百以上もある東照宮の元祖で、1616年の4月17日、徳川家康公が薨去(こうきょ:亡くなること)されたその日に、家康公の遺骸が埋葬された場所です。

生前の家康公は、「久能山は駿府城の本丸だ」とも言っていて、将軍職を息子の秀忠公に譲り、自分は駿府城(静岡市の中心部にあったお城)で大御所として実権を握っていたのですが、久能山を特別な場所と見ていたことが知られています。

家康公は遺言として、「自分が死んだら久能山に埋葬せよ」ということと、「一周忌が過ぎたら日光に分祀せよ」ということを側近たちに言い遺していますから、忠誠心が強かった江戸幕府中枢にいた人たちは、この遺言=御遺命を厳しく守りました。

ところが、一周忌が近づいてきた1617年の3月15日、「御遺命に反して家康公の遺骸を日光へ運んだ」と見せる、大掛かりなトリックが行われたのです。指揮を執ったのは、家康公と江戸幕府の宗教大臣ともいうべき天海大僧正こと南光坊天海でした。

天海はそもそも、家康公がこのような御遺命を遺す上でも重要なアドバイスをしていたはずで、その張本人が御遺命に反することをする理由はありません。

行われた「改葬」というのはつまり、トリックだったのです。そのトリックによって、「徳川家康公の御遺骸は日光にある」と信じられるようになってしまいました。

このあたりの事実について、アドマック出版では『季刊すんぷ』というフリーペーパーを発行し、詳しく検証しています。創刊号は11月1日、久能山東照宮にて無料で配布します。

同時にサイトも開設していて、そちらでも詳しいことを確認していただくことができますので、是非、読んでみてください。
さて、パワースポットということについてですが、以下のような背景があります。
  1. 徳川家康公が特別な場所であるとしてきた。
  2. 江戸幕府が、日光を墓所と見せて久能山を本当の墓所として守ってきた。
  3. 駿河湾の東西の岬の西側「御前崎」と富士山を結ぶ直線上のほぼ中央にある。
  4. 久能山東照宮は御前崎に向けて建てられており、社殿で拝むと富士山も拝むことになる。
  5. 御前崎→久能山→富士山の延長上に日光がある。
  6. 駿河湾の両端「御前崎」「石廊崎」と久能山を結ぶ三角がほぼ正三角形になっている。
  7. 京都から見て真東の方角、日の昇るところにある。
  8. 家康公の御遺骸は真西に向けて蹲踞(そんきょ)して埋葬されている。


・・・というようなことですが、まだ行ったことのない方は是非、行ってみてください。その神聖な空気というのは、日光よりもずっと深いものがあると感じられるのではないかと思います。すごいところです。

2014年9月29日月曜日

スーパーマンと善



「善とは何か?」について、これを小難しい哲学やらなんやらを持ちだして学者先生方が議論を始めると、実にやっかいで始末に負えない騒ぎになってしまいます。

『パーミストリー 〜人を生かす意志の話〜』にも書いたことですが、それはつまり「思考」を優先して議論するせいで、難しい思考をすればするほどわからなくなってくることなんですね。

絶対的な善のことを「人を生かす意志」であるとするのが『パーミストリー』の論旨であり、コスモパームの基本概念ですが、これは決して、本を書いた私の創作でもなんでもなく、人類が無意識に共有している絶対的な価値を言葉に表したまでのことです。

例えば、誰でも知っている『スーパーマン』を見ると実にわかりやすいです。

2006年のアメリカ映画『スーパーマン・リターンズ』には、スーパーマンの実の父によるものとしてこんな言葉が出てきます。
人間にはよき資質がある
だがそれを導く光がない
彼らの善の能力を照らし導くため
ひとり息子のお前を地球へ送った
(スーパーマン・リターンズ 2006年)

但し、これをそのまま読むのではなく、「どうしてこのような創作上の設定がされたのか?」という視点で考える必要があります。

スーパーマンは、アメリカ社会とアメリカ人が求め、世界が共感してきた「ヒーロー」ですが、言い換えればそれが「絶対的な善」だということ。世界が希求してきたのは「絶対的な善」なのです。

一番わかりやすい点ですが、スーパーマンとクラーク・ケントを描くのに細かな人物設定が必要ないということがあります。つまり、ただ「究極の善人」を描けば良いということです。

そしてその「究極の善人」についての小難しい定義は必要ないのです。「善」は世界共通のもので、人類が生まれながらにして持っているものだということの証明になります。

だからもし映画を見た観客から「究極の善人が描けていない」という感想が出るようだったら、それは「善の概念」が誤解されていることになり、もし観客が満足すれば、「善の概念」を正しく伝えていることになります。

映画の製作者は、この点をしっかり心得ています。でも細かな定義はしていないのです。それが、「善は世界共通で共有されている」という事実の証明になります。

スーパーマンの使命は、地球人の「善の能力を照らし導く」ことであると、映画の中でも語られるわけですが、映画の中に存在するスーパーマンとクラーク・ケントの人物設定を見てのとおり、それは「人を生かす意志」を貫く者、そのものなんですね。

2014年9月25日木曜日

近づきすぎると不幸になる対象

嵐15周年ハワイコンサートで友情にヒビ 「名義に傷」懸念も
 9月19日、20日に迫った嵐ハワイコンサート。嵐の15周年を記念して、デビュー会見を行った思い出の地・ハワイで魅力を凝縮したコンサートを行う。3万人のアラシック(嵐ファンの通称)がハワイに集まる。
 このコンサートは全国のTOHOシネマズでも生中継され、ハワイに行けず涙を飲んだファンたちも一緒に一体感を味わうことが可能だ。
 そんなコンサートだが、ファンであれば喉から手が出るほどチケットが欲しい。しかし、幸運にもチケットをゲットしながら大切なものを失ったという人も…。嵐のデビュー当時から15年間ファンを続ける、A子さん(30才)はこう語る。
 「ハワイのコンサートが発表されてすぐにアラシックの友達・専業主婦のB美(28才)と『絶対当てて一緒に行こう!』と約束したんです。私は嵐のコンサートに自由に参加できるように正社員にはならず、アルバイト生活をしています。費用は航空券とチケット合わせて、27万6000円。現地での飲食なども合わせたら30万円はゆうに超えます。記念すべきハワイコンサートに向けて、必死にバイトを増やして、貯金しました」
 その結果見事A子さんのファンクラブ名義で当選する。しかし、喜ばしい結果報告をした直後からB美からの連絡が途絶えがちに。
 「どうしたの? こんなんじゃ一緒にハワイに行くのも不安だよ」
 と連絡をしたところ、
 「じゃあ行かない! そもそも30万円なんて払えない!」
 と回答が。
 「完全に友情に亀裂が入りました。今回のコンサートは航空券付きなので、他のファンに譲ることもできません。カップルなどがたくさんいるハワイで私は一人ぼっち。また、私の名義での当選なので、キャンセルすることで名義に傷が付くのでは…という不安もあります」(A子さん)
 名義に傷が付くとは、ジャニーズ事務所のブラックリストに入り、今後コンサートが当たりにくくなるということだそうだ。幸せなはずのハワイコンサートチケットが友情を引き裂いてしまう結果になろうとは、なんとも切ないものだ。

これを読んで、どう思いますか?

嵐のコンサートに行くことが、 “友だちの存在よりも大事なもの” になっていたのでしょうか? きっとこの人にとっては本当に、友だちより嵐のファンでいることが大事だったんでしょうね。

このような悲しい事例は、ほかにもいくらでもあると思いますが、私が問題だなと思う点は‥‥
  • 身近な人たちの存在より、テレビで作られた偶像を大事にする人たちがいて、そんな人たちを作り出している「テレビ」というビジネスの罪。これは偶像をセールスするビジネスによる、深刻な被害です。
  • 「それがビジネスだとわかってはいるけど、嵐のメンバーが魅力的で素晴らしいことに変わりないのだ!」と「思い込んでいる自分」を疑わない人たちの問題。テレビが作り出した「狂った価値観」に毒されてしまっています。現実世界にいるもっと身近な人たちを大事にしようとはせず、ただテレビに釘づけになっているユーザー(ファン)がとても弱くて悲しい人たちに見えてなりません。
  • 「たとえ自分たちが弱くて悲しい人たちだとしても、そんな弱くて悲しい自分たちを慰めてくれ、勇気づけてくれるのが、その偶像なのだ」という反論も聞こえてきそうですが、本当に強くて幸せな人になろうとするなら、そもそもテレビとはある程度の距離を取ることが賢明です。テレビの中の偶像を「かわいいな。かっこいいな」と思って優しい気持ちになることは良いことですから、それまでは否定しません。でも、身近な人たちの輪の中にこそ、この人たちが本当の幸せになる機会があふれているんです。「近づきすぎると不幸になる」という「危険な対象」は、事実としてこのように存在します。

2014年9月14日日曜日

悟りの科学


アマゾンなんかでいろいろ立ち読みしてますと‥‥(立ち読みっていうより閲覧ですね)‥‥ 「悟り」の本があります。


書いた著者が、本当に悟ったと言ってるものがあるんですが、どうも胡散臭い。

かつてオウム真理教の凶悪犯、アサハラショーコーが、自分は「最終解脱した」とかのたまわってましたね。

きっと本人は “いたってその気” なんでしょう。でもね、説明してほしいですね。

そういうことを言ってる人のほとんど、というか全部、要するに「悟りの境地を開いた」と言ってる。じゃあその「境地」って何でしょうか? とツッコミを入れれば、というかしつこく問い詰めれば、「そういう気分」なんだろうと思うわけです。つまり「その気になってる」ということです。

まあ、笑ってはいけないとは思います。誰がどんな気分になろうと、その人の勝手ですから。そしてその人は本を書いて、「あなたもこんな気分になってみたいでしょ? なれますよ。難しいことですけどね」と言ってるわけです。

でもそれを「悟り」とか言うのはどうなんだろうと思います。

思考革命を提唱している私(筆者:興津諦)としましては、皆さんにはっきり伝えたいのは、「悟りとは、気分ではない」ということです。

じゃあ何かということになりますが、このサイトをいつも読んでくださっている皆さんならおわかりかと思いますが、 “自分の思考に縛られない” ということですね。

普通は、こんな順序です。

帰ってきて部屋に入ろうとする

置いてあった掃除機にけつまづく

スネを打ってすごく痛い

「いたた〜!」と声が出る

気持ち的にもすごく不愉快になる

(ここから思考が始まる)

ここで思考が始まって、「いったい誰がこんなところに掃除機を置きっぱなしにしたんだ? 危ないじゃないか! 許せない! 犯人を見つけて説教してやろう。どんなに痛かったか、教えてやらなければならない。そうだ、きっと息子だ。息子の教育は完全に間違っていた」‥‥なんてことになってくると、息子の存在そのものよりも、自分の考えの方が大事になっています。

そんな思考をしない。そんな思考に縛られない。ということが、ひとつの「悟り」です。思考よりも、息子の存在を大事にするということです。

悟ってみたい♪ と思う方。あなたのための準備できてます。

2014年9月11日木曜日

全米オープン決勝戦での錦織選手の敗因とは?

錦織圭選手の決勝戦、惜しかったですね。彼本人が自己分析している通りの敗戦だったんだろうと思います。

「(優勝した)チリッチは何回も勝っている相手。勝てるというのが見えたのも、集中できなかった理由の一つ。ここまで硬くなったのは久しぶり。試合に入り込めなかった。」

準決勝までに勝ってきた相手は格上で、決勝で「格下」と対戦。一方のチリッチは決勝の錦織も「格上」だったということ。その違いが出たのかもしれませんが、じゃあその違いがどう出たか?

単なる力勝負ではない、メンタル勝負という側面が強くなるのは、互いの実力が伯仲したゲームです。そのメンタルとは、言い換えれば “気分” です。

錦織とチリッチの「気分」の違い、それに限らないことですが、勝者がもっていた気分と、敗者がもっていた気分の違いとは、ゲームにエキサイトすることでしょう。よりエキサイトした方が勝つというのが、実力伯仲のゲームでは常に勝敗を分けます。

エキサイトするということは、別の言い方で「ハイになる」ということもできます。

よく薬物などでそういった表現をすることがありますが、かつてサッカーのマラドーナがドーピング検査で麻薬のコカインが出て、15か月の出場停止処分を受けました。サッカーの勝負に勝つにはハイになること。それには薬効が大いに期待できるコカインを使うのが最も容易だということを、マラドーナは知っていたわけです。

ですから、もし錦織がコカインを使っていたら優勝した可能性は高くなっていたでしょうけれども、そんな不正を彼に期待するのは大きな間違いです。

じゃあどうやって麻薬を使わないでもハイになれるでしょうか? それは、目の前に “自分を奮い立たせてくれるもの” があるかどうかにかかっています。

目の前にあるものに対して「どうも気が乗らないな」と感じる場合と「よっしゃ!」と感じる場合とがあって、気が乗らないと感じたときにはダウンになってしまい、勝負に勝つのも難しくなります。

それは馬にニンジンをぶら下げるというような単純なことではなくて、賞金を欲しいと感じた方が勝つということでもありません。勝負には相手がいて、観客がいて、自分がそこまで歩んできた経緯があり、直前に見た景色とか、聞こえた音楽とか、身につけているものや衣類とか、いろんな要素があります。

しかし、そもそもそんな細かな要素全てを気にするようなことでは、ハイになることは難しくなってしまいますから、単純な方法としては、ゲームの相手になる選手を見ただけでハイになれるよう、自分を変えるというのが一番簡単で有効かもしれません。

コスモパームの考え方としては、相手選手を理解しつくして尊敬するところまでいくという方法が考えられます。「こんなすごい選手と対戦できる幸せ」という、その幸せな気分にどっぷりと浸かって、それでハイになるわけです。

どうやら今回は、チリッチはそうしたハイを味わい、錦織はそういった意味でダウンになっていたといえるのではないでしょうか。

2014年9月8日月曜日

霊障のことなら、コスモパームへ!

「霊障」についても書いておかなければと思って、もう1年ぐらい経ったかもしれません。

どうにも私たち俗世間の人間というのは、「霊界」とか「怨霊」とか「背後霊」とかいった言葉によく反応します。それらについては、世間にいろんな体験談や解釈があって、怖いもの見たさなのか何なのか、摩訶不思議なことには興味がつきないんでしょう。

実は私も幽霊体験がいくつかあります。その話をここで事細かに書くのもいいんですが、怖くて眠れなくなる人がいたら困るので、一例をおおまかに説明しますと‥‥学生時代の一人暮らしのボロアパートで、夜中の3時ごろ、パイプベッドをぴったり寄せていた窓を叩く人がいて、起こされたんですが、雨がざあざあとよく降ってまして、窓を開けると白いシャツを着た若い男性がいまして、髪は直毛七三分け、なんで寝てる私を起こすのかと、もちろん気分はよくありません。「なんですか?」ときくと、「すいません。この窓に干してあったシャツを知りませんか〜」と訊かれたんですが、もちろん自分の部屋の窓だし、北側だし、そんなところに干したこともないし、「知りませんよ」と答えるしかありません。「シャツはいいんですが、胸ポケットに入れていたものが大事なものだったんです。シャツを知りませんか〜」とまた訊くんですが、知るわけもないので、「すみません。朝早くバイトに行くので、ごめんなさい」と言って窓を閉めたんですがね。眠れませんでした。

ずいぶんと事細かに書いてしまいました。ついうっかりです。すみません。

翌日だったか、翌々日だったか、夜でしたが、中学高校時代からの親友が遊びにきていて、ふとその雨の未明のことを思い出したので、彼にその話をしたところ、「どこから来たって?」と彼が畳から立ち上がってその窓を開けたんですね。

「人、来れないよ」

確かに、私の部屋は2階ですし、その窓の外にはベランダもなにもなくて、梯子もかけられそうになかったんです。でもその若い男の顔は思い出せたので、きっとアクロバットみたいなことをして、雨の降る中をこの窓によじ登ったんだろうと考えました。大体、幽霊とそんな会話をしたなんて話は聞いたことがありません。

それからそのアパートにはずっと住みつづけましたが、やはり、あの若い男はこのアパートの住人にはいないということもわかりました。

もっと無理に考えれば、かつてこの部屋に住んでいたその男が、雨の中、夜中の3時に特殊な繩梯子か何かをもってやってきて、なんとかよじ登って私を起こしたんだということも考えられるのではないかとも思いましたが、それにしては、あの時あの男は、あまりに普通に窓の外に立っていたようにも思えます。

わけがわからないので、やはり幽霊だった、というのが現在までの結論です。

幽霊、らしきものは、そのアパートの、自分の部屋の中でも見たことがあります。やはり寝ているとき、暗がりの中、テレビの上にすうっと煙が立ちのぼるようにして、女性の白い影が見えたことがあります。

その部屋では、金縛りにも、何度も何度もあいました。体がまったく動かないのに、意識だけははっきりしているというあれです。動けないだけならまだしも、体がぐわんぐわんと宙に浮いて上がっていくという経験も何度かしました。

さすがにそれはないだろうと、私も案外冷静でしたから、浮遊して上がっていく時に、目をしっかり見開いて、近くの布団と向こうの壁の位置関係を睨んだものです。本当に上がっていくのなら、布団に隠れた向こうの壁の下の方がどんどん見えてきて、しまいには畳も見えるはずだったからです。

でもそうは見えませんでした。まだ二十歳にもならないころなのに、なんて冷静だったんでしょうね。感覚としては明らかに上に浮いていくのに、視界はまったく変わっていない。つまり実際には浮いていなかったんです。

テレビの上の幽霊女性もしかりです。こっちは私に話かけてはくれませんでしたが、ぱっと出てすぐ消える感じでしたから、きっと忙しかったんでしょう。

幽霊に限らず、嫌なことの起こるアパートではありました。私の真下の部屋に住んでいた50歳一人暮らしの男性が亡くなって、死後1週間経ってから発見されたこともありました。優しそうな目をしたおじさんでした。ご冥福を祈ります。

幽霊ではなく、超能力もいろいろと体験しています。非常にリアルで超巨大な母船UFOとそこに帰艦する小さいUFOの一部始終を見たこともあります。これは全部本当の話で、つくり話は一切ありません。

さて、霊障の話です。

幽霊も、超能力も、霊障も、全ては脳の働きだと考えます。私たちの脳は非常に複雑で、未知の働きもするんです。幽霊は「霊界」のものではないと考えます。そもそも「霊界」って何だろうと思います。

私は「死後の世界」=「霊界」ではないと考えています。生きている人間が見たり聞いたりするものは、全て「この世」のものだからこそ、見えたり聞こえたりするんです。それがどんなに不思議なものでも、この世で見え、聞こえる以上は、この世のものだと考えるのが正常な見方です。

死んでからのことは、生きているうちにはわかりません。死んだ人が生き返って教えてくれたなんてこともありませんし、臨死体験というものも、脳の仕業にすぎないことがすでに科学的に証明されているんです。死んでないから臨死体験ができるということです。死んだら生きては帰れないのです。

全ては脳のしわざ。そう考えてください。霊障も、脳が起こすものです。

「霊障かな?」と思ったら、是非コスモパームを受講してください。解決して、幸せになれます。

新しい個人セッションを始めます。コスモパームです。



2014年8月29日金曜日

人を生かす意志と刑法について

きょう午前、死刑囚2人の刑が執行されたそうです。

死刑制度については、世界中で賛否両論がありますが、私は次のように考えます。

B思考がエスカレートしてしまって脳と思考の暴走をその持ち主がどうにも制御できなくなり、人を殺すという行為に出てしまうのが殺人です。

一番良い方法は、その持ち主を、その持ち主の持ち物である脳と思考から解放してやって、生かす意志に帰らせてやることです。

その人の状態によってそれを実現させる確実が方法がない、というのが現実だとすれば、脳と思考に支配されたその人を、いかにして二度と罪を犯させないようにするかという、実現可能な現実的な方法を選択するしかありません。

日本の司法においては、まず身柄を拘束すること。それには終身刑とすることが含まれます。次にその人を抹殺して、国民の税負担からその人を拘束するための費用を完全になくすこと。これが死刑です。

この問題を考える上で、どうしても避けられないことがもうひとつあります。それは、死刑を廃止して終身刑となった犯罪者を国が養うということに対して、被害者の遺族の生き方にどう影響するかということ。さらに犯罪者の身内の人たちの生き方にどう影響するかということ。さらに同様の犯罪を犯しかねない人たちの生き方にどう影響するかということ。つまり他の人たちの人生への影響です。

終身刑でも死刑でも、そうした影響に変わりがないということであれば、死刑は廃止して終身刑までとするのが正しい選択になるのではないかと思います。国民の税負担は国家財政を圧迫するほどの額にはならないだろうと思われるからです。

日本で死刑が廃止されないのは、他の人たちの人生への望ましくない影響を最小限にとどめることが、死刑によって可能だと判断されているからでしょう。殺人などの犯罪が、当事者だけの問題ではないという点だけは、無視するわけにはいきません。